第55話
以前、久方ぶりにあった友人、草薙からこんな質問をされたことがある。
『街歩いててファンに気づかれるってどういう気分になるの?』
俺も確かに思ったことがある。上京してすぐ、まだ今の仕事をするなんて欠片も思っていない時期、テレビに映った蒲田清子ちゃんをみて、ふと同様の疑問を浮かべた。
きっと彼女の私生活は多くのファンに囲まれて、誰からも好かれながら生きているに違いないと思っていた。正直いってそういったことに憧れを抱いていた節もある。ただ現実はなかなかにシビアであった。
確かに俺は昨今、世間的な知名度も大きくなってきているし、実際街中で声をかけられることもしばしばある。もちろんそんな声援にファンサービスで答えるのは当たり前のことなのだが、声をかけてくれるような方々が皆いい人という訳では無い。
大抵の事は許せるが、こればかりは少々腹のたったことがある。それはつい最近のこと、久方ぶりに夕飯時に仕事を終えることが出来た俺は、宇治正さんの運転で帰宅することになった。
いざ我が家の目の前まで到着せんとした時、自宅の目の前で数人の男女が人だかりを形成しているのに気がついた。人数はざっと5名ほどで、家の門扉から両親が何とか帰るよう宥めている様子が伺えた。
結局、俺が居ないことを知った彼らは、また来ますと一言伝えてその場を去っていった。帰宅後両親に、今の若者は誰なんだと聞いたところ、俺のファンであるという返答が帰ってきた。
毎日こうして、自宅前まで来てはサインや握手を求めるファンが詰めかけてくるらしく、両親としてもなるたけ仕事から疲れて帰ってきている俺に迷惑をかけないために、内々にこうして自宅まで来るファンを追い返しているらしい。
街中で声をかけてくれることは十分にありがたいが、家まで来るのは度が過ぎている気がする。ちなみにこのことが発覚したのは去年の12月27日、ちょうど日本レコード大賞が開催される4日前のことである。
55
1月も終わり2月に突入した今日この頃。立春と言われる本日、俺は宇治正さんに予め今日の予定を空けておくようにお願いしておいた。
理由は単純、新居探しのためである。
最初は両親に任せれば良いかと考えたが、家賃は我が家と事務所の折半で、その間に俺と宇治正さんが立たなければならないこともあって、さすがに無関係というわけにも行かなくなったが故に、致し方なく新居探しに参加した次第である。
新居が都内であることは確実として、立地やセキュリティ、街の治安等、細かい部分を吟味して選定することとなった。
待ち合わせ場所となる、赤坂はW&P事務所へと両親共々向かった我々は、宇治正さんの不動産会社の方と面識を済ませた。
「どうぞ、本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。物件の要望については宇治正さんにも伺っておりますように、セキュリティを重視したものを取り揃えております。家賃は都内とあって少々割高となりますがご了承ください...ところで今、住まわれている物件は賃貸ですか?」
「はい、一戸建ての賃貸です」
「そうですか、なら不動産売却の方は問題なさそうですね。本日紹介するのは分譲マンションと賃貸マンションのふたつです。」
「やっぱり一戸建てという訳にはいかないんですか?」
母が質問をすると、不動産屋は即答で答えた。
「えぇ、セキュリティ的にもやはりマンションの方がしっかりしています。最近ではオートロック式の設備を揃えたマンションも生まれてきていますし、一戸建てよりも格段に安全性は高まります」
「そうですか...」
「ご安心ください、一戸建てにも引けを取らないほど広く、そして設備も整った物件を用意しておりますので」
その後、不動産屋に紹介された物件をいくつかに絞り込み、簡単な内見へと向かうこととなった。
最初にやってきたのは江東区に建つ分譲マンションだった、1976年に作られたマンションは部屋数が少ない代わりに非常に広く、入口にはセキュリティ用の門がそびえ立っており、最上階にはデッキも備え付けられていた。ビアガーデンを好んで利用する父にとってはかなり魅力的な物件だった。
「広いですね」
「えぇ、日当たりもよく、駅から徒歩10分も無い程度で立地も良いと思いますよ。住宅街に建っているので街中の喧騒を忘れられますし、近くには交番もあるので比較的治安はいいと思います」
「なるほど...」
「出入口の門は、入居者に予め渡される鍵を使用しなければ入れない作りになっているので、安心して暮らせると思います」
「セキュリティも良し、部屋も広いし...宇治正さん、どうですか?」
「うん、ダメだね」
「え?」
思案していた宇治正さんは即断で却下をした。
「部屋が少ないせいもあって住民も僅かしか居ないって言うのが問題かな、結局地域のコミュニティが最強のセキュリティだし…それに正直入口の門なんてよじ登っちゃえばいい話だし...確実に安全なところじゃないと」
「分かりました...恐らく次の物件はその条件を満たしていると思いますので、早速行きましょうか」
「は、はい...」
2軒目に訪れたマンションは、杉並区にある高層マンションで入口はオートロック式、広さも十分にあり、窓からは東京の夜景が一望できた。
「ダメだな」
今度は両親が却下した。
「そもそも、お父さんも働いてるのよ...会社から遠い場所はなるべく避けたいし...それにここ高すぎる」
「月いくらでしたっけ...」
「211万です」
「あぁ...うん、200までいっちゃうと厳しいですね...いくら息子が稼いでるとはいえ」
両親は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。さすがに家賃200万超えは庶民からすると敷居が高すぎたのか、宇治正さんもこれには納得する他なかった。
そしていよいよ最後の3軒目となった。ここが不成立なら、もう一度最初からやり直しである。案外物件なんてすぐ見つかるものだと思っていたが、家選びはなかなかに難航していた。
3軒目は目黒区にある賃貸マンションで、部屋数もかなり多く、近場には公園もある優雅なマンションだった。入口はオートロック式、エントランスには24時間常備のフロントがあり、コンビニエンスストアがテナントとして入っていた。
しかも月80万円程度で、2軒目の物件と比べるとなかなかに安く感じる。まぁもちろん、これでも十分に高いが...。
「ここかぁ...ここはかなりオススメだよ」
宇治正さんが呟くように言った。
「ここは芸能人御用達、セキュリティも高くて部屋もなかなかにいい、何より入居するための審査が芸能人だと通りやすい...まさか空き部屋があるとはね。」
「なんで芸能人だと通りやすいんですか?」
「大家さんが芸能人好きで贔屓してくれるんだよ。そのおかげかこのマンションは週刊誌の記者からしっかり情報を守ってくれるし、至れり尽くせりのマンションさ」
「へぇ...」
今の俺からしてみれば魅力この上ない物件だ。
マンションの入口から建物の中に入り、空き部屋である807号室へと向かった。
部屋の玄関は至って普通だったが、扉を開けるとそこには欧風を思わせる綺麗な部屋が広がっていた。
壁紙は淡いベージュで、床はフローリング、オマケにダイニングキッチンや、広いベランダまで完備されていた。さすがは80万円だ、正直2軒目のマンションに比べると若干庶民的な部分はあるものの十分すぎるほどに綺麗な部屋だった。
「広いし、清潔感がある...セキュリティも万全...ここなら...」
「「「ここにします」」」
「ありがとうございます。では書類等々は後日郵送で送らせていただきます。」
俺の催促を前に既に決断を決していた両親と宇治正さんは文句なしといった堂々たる振る舞いをしていた。
数日後、無事審査も通りようやく晴れて新居へと移ることの出来る厳島家は、目黒区アークマンション807号室で荷解きをしていた。
新居は以前の一軒家と比べ部屋が多く、足を伸ばせるお風呂や、最新式のトイレまで完備されていた。母は広いダイニングキッチンを偉く気に入り、父はベランダに早速、野外用の椅子と机を広げて一人ビアガーデンを楽しんでいるところだ。
俺自身も自室の家具配置を終え今はベッドで横になっている。ふと、引越したついでにご近所挨拶に行こうと思い立った我々は、両親共々菓子折りをもって隣の2軒の呼び鈴を鳴らした。
1軒目の806号室は羽振りの良さそうな証券マンが住んでいた、問題なのは2軒目だった。
まさか、彼女が住んでいるとはつゆ知らず、我々は軽い気持ちで呼び鈴を鳴らしてしまった。
「隣に越してきた厳島と申します」
『はーい、今出ます』
どこか聞き覚えのある声だと、耳を傾けた。清子ちゃんでも中川さんでもない、近いうちに聞いていない声であることは確かだ。
そして答え合わせのように中から出てきたのは。
70年代を代表し、1981年の1月に芸能界を引退をした伝説のアイドルだった。清子ちゃんからも、彼女の逸話については幾度か聞いたことがあり、彼女自身も憧れを抱いていた存在だというその人。
山口百子が目の前に現れた。
セーターにエプロン姿という、なんとも主婦らしい格好をして。
「こんにちは...あぁ、お隣の...」
「えぇ、厳島と...申します...」
両親が完全に固まっているので、芸能人に多少は慣れている俺が代わりに挨拶をする。
「そう言えばどこかで見たことがあるお顔かと思ったら...厳島裕二さん...ですよね?」
「え、えぇ...自分もまさか山口百子さんが出てくるとは」
「驚かせてしまったようでごめんなさいね」
「いえいえ...」
数分間の談笑を終えた我々は、菓子折りを手渡し、逆にお返しとして、彼女が作ったであろうおすそ分けの筑前煮を貰い自宅へと戻った。
「隣...百子ちゃんの家だったわね」
「てことは俳優の旦那さんも住んでるって事だよな...」
「うん...間違いなく」
当方、伝説のアイドルの隣に住むことになりました。
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