第52話
窓際からは確かに、ホテルの外壁の縁に立つ女性が確認できた。覗いた窓から女性の立つ位置はざっと10mにも満たないが、それでもこのような高所ともなれば遠く感じる距離であった。
女性は、ただ何をする訳でもなく下をボーッと眺めている。今すぐ飛び降りようとしないという点は幸いと言えるだろう。
我々は拙い英語ながらも、フロントに電話した。こういう時は自分たちだけで解決しようとするのではなく、誰かに頼ることが妥当である。ただ、こうして大人を待っている間にいきなり突発的に飛び降りる危険性もあるので、一秒でも長くその場に留まるよう促すことが我々にできる最低限の行動であった。
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それから20分、事態を聞き付けた宇治正さんも合流し、我々は救助隊が来るまでの間、彼女を必死に制止するに徹した。下手に興奮されては今すぐ地上数十メートルから落下しかねないため、優しく、宥めるように話しかける。
ただその意思に相対するように、ホテルの下には多くの野次馬が集まっていた。救助隊よりも先に警察のパトカーも複数停められ、辺りは騒然という他なかった。
『大丈夫、なんならコーヒーでも一杯飲んでじっくり考えようじゃないか。』
『...』
宇治正さんの問いかけにも動じず、ただボーッと立ち尽くすその様は、抜け殻のように感じられた。
ふとその時、強い風が吹いた。冬、しかもビル群が立ち並ぶニューヨークの強い風、通称ビル風と呼ばれるものが猛威を振るった。
彼女は途端にバランスを崩し、半ば下半身が宙に放り出された。ただ運もよく、窓の縁にギリギリ指先を置くことで落下を防いだ。のし上がろうと必死にもがく。
「まずいですよあれ!」
「ど、どうする...誰か行く?」
危機的な彼女の状況を見てその場にいた殆どのものが、足を竦ませた。途端に、俺は駆けた。
人生、今までにないほどの全速力で部屋に戻り、土産として買ったカウボーイ風の綱を取り出す。
西部劇のように上手くいかないとは分かっている、ただ、少しでも可能性があるならば試してみる他ないだろう。
俺は再び窓際に戻ると、ロープの片方、輪っかになっている部分を彼女の手元に投げた。
「そのロープは...」
「お土産で買ったものです...すいません、どなたかそこのベッドの柱に片っぽの紐を固結びしてくれませんか」
部屋の片隅に置かれたサイズの大きいベッド、端の四柱に縄を括り付けるよう、目配せを行い対応を促す。すぐさま結ばれた紐を確認し、俺は女性に語りかけた。
「死にたくないなら掴んでください!!こうして落下することに抗ってるって言うなら、まだ死にたくないとどこかで思ってるんでしょう!!!!」
日本語なんて到底通じないことは分かっていた。ただその時の自分はひどく感情的だった。
「お願いだから掴んで!!!!!!!!掴め!!!!!!!」
「掴んでッ!!!」
『ロープを掴んで!!!!!』
勢いに押され、ついにロープを掴む。その手は深く、何としてでも落ちまいと腕に何重も巻き付けていた。刹那、彼女の手の力は限界に達し、振り子のように体がホテルの壁際を伝う。部屋に
俺はすぐさま、ベッドの分厚い掛け布団をロープにかけ、思いっきり掴んだ。摩擦で
瞬間、前方に引っ張られはしたものの、何とか部屋の壁に足をつき、ほぼ横に倒れるように必死にロープを引いた。
感触は人間を引っ張るにしては軽く、このまま踏ん張れば部屋まで引き上げられそうだった。部屋にいた大人全員でロープを引くよう促す。反対するものはおらず、全員が紐を掴んだ。
中川さんが窓から頭をのぞかせ、下の状況を確認する。
「大丈夫そうです!ちゃんとロープ掴んでます」
「OK...よし、このまま引き上げて!!」
綱引きのように体重をかけながら、着々と綱を手繰り寄せていく。やがて、手の届く距離まで達した時、俺はロープを宇治正さんらに任せ、女性の手を掴んで寄せた。
「...大丈夫、ですか」
『...』
一応安否の確認を取るが、返事はない。
「厳島くん、朱美ちゃん、あとは我々大人がやるから...できるだけ厳島くんの部屋に行ってそのまま待機していてくれ...多分警察とか事情聴取もあるから」
「はい」
「碁石くん、二人を見ていてくれないか...私は色々ホテル側とか警察と折り合いつけるから」
「分かりました...じゃ、2人とも行こうか」
「「はい」」
意識がぐったりしている女性を抱える宇治正さんを見ながら、俺は自室に戻った。
それから10分もせず、ホテルには警察と救急隊員がやってきた。女性は担架に乗せられ運ばれ、現場に残った我々は宇治正さんの予想通り、簡単な事情聴取を受けることになった。
「午後8時30分頃に彼女、中川朱美に呼ばれ部屋に着いていくと、彼女の言っていた通り先程の女性が今にも飛び下りるところだった...そうだよね、厳島くん」
「はい...」
『彼女は故意に飛び降りた?それとも事故?』
「女性は自分から飛び降りたのか、事故か...だって。突風になびかれただけだから、多分事故だと思うけど」
「自分もそう思います」
『我々が見た時は.......』
しばらく続いた事情聴取は、夜9時30分に終わった。今回の事件、飛び降りようとしていた女性は一般の宿泊客ではないらしく、名前を聞いた時我々は場違いにも驚きを隠せなかった。
何せ大分やつれていて、知っている容姿とはかけ離れたものだったのだ。アメリカで有名なカントリーバンド『カントリーピーキング』のボーカル、ヘレン・アンダーソンであった。
カントリーピーキングといえば、カントリー音楽の草分け的な存在で、ボーカルのヘレンとピアノのチャールズは
ボーカルのヘレンに一体何があったのか、俺にはそれを聞く勇気はなかった。
気にもなったが、十中八九デリケートな問題であることは火を見るに明らかなので、口を噤むことにした。
翌日
昨夜のことで暫く寝付けず、午後1時に寝て、朝7時に起きた。我々W&P勢は、朝食のため1階エントランスはレストランへと向かうべくエレベーターに乗り込む。
中川さんらはもう少し遅い時間帯に起きるようだ。
早朝のエレベーター、宇治正さんもスタッフの方もこれといった会話をせずにしばし待っていると、途中の階で停止し、ドアが開いた。
そこには、屈強なボディガードを連れた見覚えのある顔があった。昨日ホテルチェックインの際に見かけたアーティストの1人、シシリア・ローリーだった。金と赤、そしてオレンジという炎を彷彿とさせるような髪色は日本では中々お目にかかれない派手さを、これでもかと表現していた。
ボディガードと2人で乗り込んできたことで一気に狭くなったエレベーターは、1階を目指す。どうやら彼女もレストランへと向かうようだ。
ふと、彼女が俺の顔をチラチラと見ていることを視界の端で感じた。一体何故こちらを見ているのか...、蛇に睨まれた蛙に等しく、俺はその場で固まった。
ただ彼女は予想に反して、俺に対しフレンドリーに手を取った。
『アンタ、噂の日本人ね?』
「え...」
「君が噂の日本人か...だって」
「噂...?」
『聞いてるよアタシ、アンタがヘレンを助けてくれたって』
「...昨日の、ヘレンさんを助けた件でご挨拶だってさ」
「へ、へぇ...あぁえぇと、YEAH センキュー……?」
『アンタは偉大な日本人だよ!ホントに、今度またユナイテッドステイツに来ることがあったら、私が協力してあげるからさ!』
その後、宇治正さんを介した会話がしばらく続き、1階にたどり着いたところで自然と別れた。
と言っても、向かう先は一緒なので半ば追いかけるような形でレストランへと向かう。
その途中...
『Hey!そこの日本人!』
「えぇ...今度はなに……」
『聞いてるぜぇ、あんたがヘレンちゃんをランボー並の勇猛さで救助したんだって?イカした男だぜほんとによォ』
「こりゃまた凄いな...」
「え、どなた...」
「ボム・ディレンだよ!あのフォークの王様!」
「え!?この人が!!」
『よう、驚いてるようだな...ま、俺の方がアンタに会えて驚いてるし光栄だと思ってるんだぜ、何せあんたは俺たちミュージシャンにとって同業者を救ってくれた英雄なんだからな』
「え、あ...なんかよく分からないけど...テンキュー」
『私達も、ボム・ディレン...あなたに会えて嬉しいですよ』
『そうか!それは良かった』
彼はそう言いながら笑顔で去っていった。さらに間髪入れずまたもう1人握手を求めてきた。
『やぁ、君の勇猛さには...』
「えぇ...次はライオ・リッジー...」
いつの間にかホテル内において、俺や中川さんの知名度が急上昇していることを、俺は後から合流した中川さんに話すことは出来なかった。
急に握手を求められ困惑する中川さんと、それを対応する俺は、早速グラミー賞授賞式前にも関わらず疲弊してしまった。
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