第39話
生放送まで約20分前、最終コンディションとばかりに喉奥に白湯を流し込む。ここ最近は専らこうして喉の調子を整えることが多くなってきた。11月に入ろうとしている秋、乾燥は歌手にとって一番の天敵だ。
本来ならホットミルクに蜂蜜を入れたものが最も良いと言われているが、生憎この場にはコーヒーかお湯か、スポンサーの江永ココアしかないので、希望は叶えられそうにない。
食道を流れる温かさを感じつつもスタッフに呼ばれるまでしばし楽屋で待っていたその時、ノックとともに現れたのは、つい最近までしのぎを削っていた強力なライバルだった。
39
あの一件からしばらく経過し、私も心の落ち着きを取り戻してきた頃、激務のスケジュールの中に3度目の出演依頼があることを知った。『夜はヒットスタジオ』私が歌手デビューする際に大変にお世話になった番組だ。
出演当初はテレビで見るような有名な歌手の方々に囲まれて困惑していたのはいい思い出で、緊張からくるポーカーフェイス故か、当番組の司会者である葉村さんから「この番組に初めて出る子は大抵緊張するもんなんですがね、しかしあなた肝が座ってるわね」と表情の硬さを、さも平然としていると勘違いされのも記憶に新しい。
早3度目の出演となる本日、新曲の発表を間近に控えた私はマネージャーと共に放送するスタジオへと向かった。駐車場前で複数人の男女にサインと握手を求められた後、車を停め楽屋へと向かう。
「朱美はそのまま、リハーサルに向かっちゃって」
「はい」
マネージャーからの指示でスタジオに向かう、この番組は生放送、万が一のことがないようにリハーサルは入念に行わなければならない。通路を歩き向かった先のスタジオにはお馴染みのセットが組まれていた。3度目というのに既に見慣れているのは今までブラウン管の前で見てきたからか。
何やら騒然としているスタッフさんたちの横を通り過ぎ、プロデューサーさんに挨拶をする。
「中川朱美です本日はよろしくお願いします」
「よろしく...確か朱美ちゃんのリハは3番目...この後だったかな」
「はい」
「じゃあ、早速行ってみようか」
スタジオの右後方、生演奏を売りにしている当番組自慢の音楽隊の方々が、慣れた手つきで演奏を始めた。いつになってもこの生演奏というものに慣れない、体の内に響くような大きな音は自分の歌声でさえも判別できないが、逆にそれが緊張を紛らわしてくれていると考えると非常にありがたい。
私は自分の感覚を頼りに歌唱をする。先程まで別番組で歌ったというのに、我ながら強い喉だと思う。一日に何度も歌うことはしばしば、しかもそれがほぼ毎日続くのだから、振り付けも歌詞も自然と頭の中に入っているのでスラスラとリハーサルは進む。
予定よりもだいぶ早く終了したリハーサルの後、楽屋へと向かって諸々の準備をすることとなった。メイクは先程の現場でしてあるのでいいとして、髪のセットや衣装を着なければならない。
黒いサテン生地のドレスを着付け、髪をドライヤーとクシで整える。それなりにお茶の間の前に出ても恥ずかしくない格好になったところで楽屋挨拶へと向かった。
挨拶はこの世界で生きる端くれとしても大変に重要なことで、特に初対面の方には必ずしなくてはならない。挨拶をしなくても別に良いという寛大な方も居れば、礼儀を重んじる方もいらっしゃるので、千差万別問わず全ての方に頭を下げることが重要だ。
並び立つ楽屋を次々ノックし自身の素性と本日はよろしくお願いしますという文言を述べた後立ち去る、たったこれだけの動作を繰り返すこと約9回、出演する合計10組の最後の楽屋へとノックをした後扉を開けた。
ただそこに待っていたのは、私が誠心誠意謝罪するべき相手であった。
・・・
・・
・
扉から入ってきた彼女はまるで天使のような美しさを俺に感じさせた。こうして会うのも新宿音楽賞以来か、仕事に追われる毎日を送っているのに、一度もこの日まで彼女との共演がなかったことは随分と不思議と取れるが、今日この場で自分の意思を伝えなければ今後しばらく機会はないかもしれないと俺は立ち上がる。
そして一言
「「申し訳ありません(ごめんなさい)!!」」
「「え?(...?)」」
「ど、どうして厳島さんが あ、謝るんですか...」
「いや、悪いことをしましたし...」
「で、でも私としては...怪我をされたのも元々私のせいで」
「えっ...いやあれは自分が勝手にやったことでして...それこそ瓶から守るために咄嗟とは言えど女性にハグをするように、庇ってしまったことを自分としては...」
「でも...」
「いや...」
「落ち着いて話そうか...1回」
宇治正さんに促され座る俺と中川さん。
彼女のマネージャーは終始何が起こっているのかということを把握出来ていないように両者の顔に目線を向けた。
「...いまの噛み合わない会話から察するのは難しいけど、おそらく2人とも新宿音楽賞で起こったビール瓶事件にまつわる謝罪をしたいようだね」
「はい」
「ここは私が判事を務めるから、双方の言い分を述べて、この場でわだかまりを解消してくれると私としても有難いな」
「分かりました」
トントン拍子で話がまとめあげられていく。
「中川朱美ちゃんは、我社の厳島裕二が自分のせいで怪我をしてしまったと、そうおもっている...一方当の厳島くんは、庇うためとは言えど無闇に女性に覆いかぶさってしまったことに対して自責の念を感じている...といった具合かな」
「はい」
お互いの言い分を纏めあげた宇治正さんを他所に、中川さんはひたすら自分の意見を述べた。
「私としては、あれほどの重症を負わせてしまったことに...その、強く謝罪しなければと思っていて。」
「中川さんのせいじゃないですよ、あれは自分が勝手にやったことで...」
お互いの言い分は対立こそせねど、曲げることも無く、互いに謝罪の押しつけあいが展開された。俺もそして中川さんもその時ばかりは相手にとにかく謝らなければという念で思考は一杯であった。宇治正さんもとにかくその裁判をまとめようと、詳細な経緯を順に話を進めていくばかりで、この場にいる誰もがこの謝罪の応酬というカオスな空間を収めることは出来ない、そう思われていた。
「あの、話の経緯を聞く限り...全部悪いのってビール瓶投げた人じゃないですか」
「「「...ん?」」」
中川さんのマネージャーである
「うちの中川が厳島さんに怪我を追わせてしまったと思っている原因も、厳島さんが彼女を庇う原因も全てそのビール瓶を投げた人のせいですよね...なんでお互いが謝罪しなきゃならないんですか」
「まぁ、確かに犯人が全部悪いけど...お互いのわだかまりを解消するために一応ね...」
憤慨したような表情をしている碁石さんを宥めようと宇治正さんが声をかけるものの、碁石さんの怒りは留まることを知らず、ついにはこの場にいないビール瓶事件の犯人を糾弾し始めた。
「身勝手すぎません?だってニュースでやっていたでしょう?犯行動機が、自分の応援していたアイドルが金賞を受賞しなかったからって...馬鹿にしても度を過ぎてると思いますし」
「まぁまぁ...君の言い分もわかるけど」
「中川にも怪我を負う可能性があったわけですよ、ほんとうにこの場にいたら轢き殺してやりたいくらいですよ、なんなんですかその犯人...こうしてこのわだかまりの空間を作り出しているのも元を言えばアイツのせいじゃないですか」
「轢き殺すは言い過ぎよ、碁石くん!」
「あの虫けらめ、今度あったらタダじゃ置かないぞ。我社の全総力をかけてやつを地の底まで追い詰めてやりますよ。あー、イライラする...いまから拘置所行ってぶん殴ってこようかな」
「それは絶対に行動に移しちゃダメだよ、君も拘置所の仲間入りになっちゃうよ碁石くん」
やり取りの傍らで、若干引き気味の俺と中川さんは最終的に、一緒になって碁石さんを宥めるに至った。
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