第37話
その日の午後、私は父と一緒に母の説得を迫った、ただその返事は予想とは違うもので。
「いいんじゃない?」
という楽観的なものだった。我が家の母は家の物事を取り仕切る鍋奉行ならぬ家奉行で、実家である『飯来』がここまで繁盛しているのも母の手腕のおかげと言っても過言ではない。
厳しく、真面目で、どこか昔気質の女性である。私が過去、捨て猫を拾ってきた時は責任が取れるのかと小学生ながらも叱責された記憶がある。幸いその捨て猫は知人宅に預けられることになった。
そんな厳しい母が絶対に許諾しないであろう事柄が許諾されてしまったのだから、私と父はさっきまでの緊張はなんだったのかという空虚感と安堵でモヤモヤとする他なかった。
37
目の前に座る宇治正健吾という男性は、下町の中華料理屋には似つかわしくない、いかにも高そうなスーツに身を纏った男性だった。父と同い年かそれより上と推察できる風貌は、見るからに場馴れした雰囲気そのものだった。
私の両端に座る両親はそんな彼をマジマジと見つめながら、彼の話に聞き入っていた。何故か私共々、彼が話す度に興味がそそられてしまうというか、その言葉とテンポ、そして声に不思議な吸引力を感じた。
「でも、うちの娘が売れるって訳じゃないんでしょう?」
「ご安心ください、我々W&Pはかのホワイトバルーンが活躍していた芸能事務所です。タレントをプロデュースする手腕は大手事務所の敏腕マネージャーに引けをとりません」
「はぁ...」
「あぁ、それと言い忘れていましたがね。我が事務所のスカウト能力はそれはもう卓越したものでして、彼女こそこれからの音楽界において突出すべき逸材と判断したが故に、スカウトした次第であります」
宇治正さんはキラキラとした眼差しで力説しているものの、それに反するように手を挙げたのは母だった。
「うちの娘に魅力を感じてスカウトしてくれたのは分かるんだけど、ほんとに大丈夫なのかい?正直いってホワイトバルーンも結局は人気の低迷が解散の理由だろ?」
「ちょっ、お母さん」
母のキツい言葉に思わず宥める言葉を探す私であるが、宇治正さんは正直に答えた。
「そうですね...あの頃は我々も急ぎすぎました。海外進出を狙ったはいいですが、戻ってきた頃には国内で蒲田清子という大型新人が生まれてましたから」
「うちの娘の将来は、本当に大丈夫なんだろうね」
「はい、我々も馬鹿ではありません。失態を学び、今後二度と...という精神でこの仕事をやっています。それこそ命をかけて」
「...命かけてって言われちゃあ。反論は出来ないね...」
しばし流れる沈黙。すると、彼は我々が聞いていないのにも関わらず過去の過ちについて語り始めた。
「ホワイトバルーンが全盛期の時代、1970年代後半は我社の年商も、それこそ大企業と引けを取らないほどにありました」
「...」
「それも一重に彼女達の人気というのもありましたけど...彼女達の多忙という面もありまして...」
「多忙?」
「えぇ、寝る間も惜しんで仕事を入れ続けました。なにせそれほどに依頼が舞い込む人気でしたから...」
「...」
「膨れ上がる利益に一喜一憂していた結果がその後の惨状を産んだと言っても過言ではありません。私は、そんな過去を悔やんでも悔やみきれません」
「...」
「スカウトする側が言うのもなんですが。よく考えてから所属を決めてください。」
「...杏子、あんたはどう思ってるんだい」
「え?」
母も、父も、そして宇治正さんもこちらに視線を向ける。そうだ、当事者は自分なんだ。
今ここで決定権を持つのは他の誰でもなく私なんだ。私は、この大きすぎる決定に色々な考えを巡らせながらもゆっくりと頷いた。
「両親の意見を尊重するのなら、是非...事務所に所属させてください」
「わかりました。ご両親、そして杏子さん。貴女の意見を最優先した上で我々は全力で芸能活動をサポートしていきます」
「はい、お願いします」
その後、菊地夫妻から告げられた条件を元に契約書が作られ、菊地杏子はW&Pに所属する意向を朱肉に込めた。
彼女が芸能活動をするにあたって与えられた条件は、学業を疎かにしないこと、そして彼女自身の意見や希望を最優先すること、いつでも辞められるように手配すること、であった。
・・・
・・
・
原宿、若者の町として知られるこの場所は今一種のパニック状態に陥っていた。
竹下通りの前に置かれた台座、周辺には警備員がこれでもかと並べられ歩道を促している。
午前11時00分、一台の車から降りてきたのは複数人のカメラマンと、最近見覚えのある顔だった。
「裕二ーーーっ!!」
誰かがそう叫ぶと一斉にその方向に向いた。羽織っていたロングジャンパーを脱ぎ、口元のマスクを外す、今ではお馴染みになったマスク姿と独特な髪型は誰もが彼だと確信するには十分な容姿であった。
瞬間、湧き上がる若者の町。全員が彼を知っていることに彼自身は驚いていた。
「すごっ...」
人の波、まさに表現するならそうである。
それもそうだ、今現在最も勢いのある男性アイドルの1人となった厳島裕二がテレビの中から出てきたのだから、興奮せざるを得ないだろう。
そのための警備員。
彼に向かわんとする若人をブロックするのが本日の役目だ。
「あ、あの...こんな状態でほんとにジャケット撮影できるんですか?」
「大丈夫大丈夫...ほら時間ないからポーズポーズ」
「あ、はい」
宇治正さんは今頃何をしているのだろうか、そう場違いなことを考えながら厳島はひたすらに指示されたポーズを取り続けた。
新曲のジャケット撮影は終始、興奮冷めやらぬ空気の中で行われた。
竹下通りでの撮影終了後、厳島は信じられない言葉を耳にした。
「ん?」
「だから、別バージョンも撮るからねって」
「どこで...ですか」
「ホコ天」
「...終わった」
ホコ天といえば、原宿から直ぐにある歩行者天国のことである。連日多くの若者が奇妙な衣装に身を包んでひたすらに踊り続けるという現代版ええじゃないかと舞台とされる。(大嘘)
「大丈夫、バレないように変装もするから」
「変装?」
「ほら……これ」
カメラマンが薄ら笑いを浮かべながら取り出してきたのはやけにカラフルな服だった。
「……」
「なろうぜ!竹の子族!!」
「...事務所通していいですか」
「いいじゃないか竹の子族、なんならローラー族っていうのもあるけど」
「いや、どっちも問題ですって。カラフルな服に身を包んだとしても、リーゼントでブギウギ踊ったとしても、顔が露出してりゃァバレますよ」
「バレないって、絶対」
「バレますよ。」
矢継ぎ早に否定はしたものの、そのまま流れるように着替えさせられ、俺はいつの間にかホコ天のど真ん中に、放り出された。
大きな道を埋め尽くすカラフル集団たち、彼らが何の目的でこの場所で踊っているのかという野暮な疑問は置いといて、俺はとりあえずなるべく目立たないようにその場で踊ることにした。
幸い皆、踊りに必死なようで俺に気づく人間は極小。カメラマンたちも、俺ではなく竹の子族を撮りに来たという
この場では踊らないことが何よりも目立つ行為だ、俺はとりあえず流れている音楽に合わせて周りを見ながら適当に体を動かしていた。
ただ時間が経つほどにチラホラと俺に気づき始めて、やがて踊り始めて10分も経たないうちに周囲の人間の大半は俺に気がついた。
警備員が出動した。
自分の名前が数多の黄色い声援となって飛んでくることに手を振りながらも俺は逃げるようにその場を去った。
最後に、俺はカメラマンにこう言った。
「やっぱり無理じゃないですか!!」
次の撮影場所が例え清里になると言ったら、俺は問答無用で仮病をするだろう。
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