第36話
デビュー曲をリリースしてから早3ヶ月が経過した。ここずっと横這いに売上を伸ばしていた『東京ロープウェイ』も需要に供給が追いついたのか徐々に蛇行しながら右肩下がりになり、それに比例するように週間チャートの順位も下がりつつあった。
3ヶ月という期間は決して長くは無いものの、同業者であるツッパリ隊や蒲田清子さんはすでに新曲のリリースを冬突入前に開始していた。
冬という時期はある意味歌手にとって書き入れ時で、クリスマスプレゼントやお年玉を使ってレコードを購入する人々が多数いる他、冬ソングという一種の季節的な楽曲の発表が、購入を促進させるという経済効果を生み出すわけである。
ファンもこの時期に発売される新曲を待ち遠しにしているらしく、ここ最近事務所の方に届くメッセージ、言わばファンレターには冬に新曲を発表してくれという要望が多数あった。きっと世間的には「何をデビュー曲がそこそこ売れたからと言って厳島はかまけているのか」と思っている人間も少なくはないだろう。だがしかし、俺も俺とて新曲の発表をもうすぐ控えていた。
36
東京都、世田谷区用賀。落ち着いた街並みが広がるこの場所に宇治正は予定よりもかなり早く、昼前にはやっていていた。
本日は普段のマネージャー業と少し違う、事務所の存続をかけた大一番を彼一人で成そうとしていた。というのも今回の案件にいたっては彼が先陣を切って手を挙げたのが理由である。
宇治正は駅東口の横断歩道前で約束の時刻になるまでしばし立ちつくした。季節はもうじき冬、手を摩りたくなる気持ちもわかるが今は一ビジネスマンとしてみっともない真似はできない。
しばらくして、やってきたのは壮年の男性と見覚えのある顔だった。
「お久しぶりです。お父さんも本日はよろしくお願いします」
「はい」
宇治正は駅前でタクシーを捕まえると目的の店まで向かった。
「飯来までお願いします」
・・・
・・
・
下町の中華という言葉が似合いそうな飯来という店には小野小町にも引けを取らない看板娘がいることで有名だった。地元の学生や工事現場の職人まで彼女の接客と、美味くて安い飯を求めて連日来店するのが常だった。
そんな彼女、
その日も中々の繁盛を見せていた飯来に一本の電話があった。用賀にある大型撮影スタジオにラーメン3杯を出前してくれという旨のものだった。彼女は注文の品を店のおかもちに入れて自転車に跨った。
店からスタジオまでの距離はさほど遠くはない、幾度かその場所に出前をしていた彼女からすればさほど難しい注文でもなかった。案の定、ラーメンが冷め、伸びきる前にスタジオへとたどり着いた彼女は、外で待っていたスタッフに注文の品を届けるとしばし外で待つことにした。
冷たい風が肌に突き刺さる。上着を着てくればよかったと公開しながらも白い息を燻らせた。
そんな中、外に出てきたのはいかにも業界人の雰囲気を漂わせた男性だった。口ひげが特徴的な中年の男性だ。
彼はしばし巻紙の先を赤く灯らせた後、彼女に気がついたように見やった。刹那、吸っていた煙草を灰皿に押付け建物の中へと駆け込んで行った。何事かとキョトンとする彼女を他所にしばらくしてやってきたのは見覚えのある顔だった。
「で!そんときに厳島 裕二が来たの?」
「そう...だから何度もそう言ってるじゃん」
「サインは!?」
「貰ったよ、色紙を持ってなかったから代わりに、注文が書いてあるメモ帳にもらった」
「「「いいなぁ」」」
「うん、私もあの時は興奮しすぎてよく覚えてないよ...」
世田谷区にある中学校のホームルーム、彼女の周りにはクラスメイトの女子、はたまた他クラスの女子まで紛れ込んでごった返していた。同級生の男子からすれば何事かといった事態であるが、彼女が先日体験した話を耳にすればみな納得がいった。
今話題の新人、厳島裕二に会った上、サインと握手をしてもらったのだという。芸能人に会うというだけでもかなりの確率だと言うのにその相手がかの厳島裕二だというのだから、学校中にその話が伝わるのも時間の問題で、彼女が朝のショートホームルーム前にその事をクラスの女子に話したところ、3時間目休みにはすでに学校中に情報が広まり、学年、クラス問わず3年2組に多くの女子が集まるという事態を形成していた。
「厳島 裕二なんて顔だけだろ?なんでそんな盛り上がんだよ」
クラスにいる一人の男子が声を上げる。刹那
「あんた何も分かってないわね」
「厳島くんは歌も演奏も上手いに決まってるじゃない」
「不良は黙ってなさいよ」
という女子の大バッシングを浴びた。
今、彼女の通う学校では女子の間で厳島裕二とツッパリ隊の人気が急上昇していた。クリアケースに彼らのブロマイドを挟んで持ってくる者や、彼らの出演する番組は毎日欠かさず見ているという者も少なくはなかった。
故に、そんな憧れの存在と対面した彼女のエピソードを一つ聞きたいという多くの女子が、彼女の席の周りを囲んでいた。ただ男子に至っては、クラスのマドンナである菊地杏子が厳島裕二の話をしていることが気に食わないようで、どこからか野次を飛ばしていた。
そんな彼ら彼女らを一刀するようにやってきたのは学校の教師の1人であった。
「
「あ、はい」
「電話だぞ」
「はい」
彼女は申し訳なさそうに席を立つと、多くの人混み掻き分けて職員室へと向かった。
「失礼します。3年2組の菊池杏子です、電話を取りに来ました」
「どうぞ」
入室する旨を伝え、職員室に入る。ちょうど受話器に耳を傾ける教頭先生の元へ向かうと、教頭は彼女に電話を変わった。
「もしもし」
『もしもし、杏子か』
「あ、お父さん?」
『あぁ、今少し時間あるか?』
「うん」
『実はさっきW&Pっていう芸能事務所から電話があってな。是非杏子をスカウトしたいって言ってきたんだ』
「ホント?」
『あぁ、ホントもホント、今日はエイプリルフールじゃないだろ...で、今度の日曜日にどこかで会えないかと言ってきたんだが。どうする?杏子』
「え...どうするって。」
ふと時計を見れば、休み時間があと秒針3周ほどで終わりかけていた。
「んー、一応話だけでも聞いてみるってことで」
『わかった、そう伝えとくよ...父さんも杏子がその道に進むって言うなら止めはしないからな、あとは母さんを説得するだけだ』
「うん、帰るまでに口説き文句考えとくよ」
『あぁ、じゃあな...勉強がんばれよ』
「うん」
受話器を置き一礼しながら職員室を出た。教室へと急ぐ足取りは一種の興奮から軽やかになっていた。
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