第29話
横浜。日本有数の港湾都市として知られるこの場所は、鎖国を解いた江戸幕府が海外との貿易を頻繁に行っていた港として知られ、今や大都市としてその地位を確固たるものにしている。
東京湾と比べ開放的な海にはヨットやクルーザー等、金持ちの娯楽とも言える船が所狭しと並び、さながら日本のカンヌのようであった。
そんなシティポップが似合うような街は本日、いつもとは少し違った高揚的な雰囲気に包まれていた。その原因の中心とも言えるのが若年層の少年少女で、彼ら彼女らがソワソワしている理由が横浜市市民文化会館にあった。
そう、本日若手アイドルの登竜門ともいえる三大音楽賞は一つ、横浜音楽祭がその場所で行われるのである。
29
「初めて来ました...横浜」
「中学校の時とか、修学旅行で来なかったの?」
「うちの学校は修学旅行なんてあってないようなもんですから」
「そりゃまたなんで」
「秋田の山村にある廃校寸前の学校ですよ?生徒の数も少ないから徴収する金額の合計も少なくなるし、その分予算も削られるんです」
「あぁ、そうだった...で、どこ行ったの?」
「隣町の...ゴミ処理場に」
「そ、それ...修学旅行?社会科見学じゃなくて?」
「ゴミ処理場を見た後に、よく分からない所を連れ回されて、結局格安のビジネスホテルに泊まって帰りましたよ」
「...はたしてそれは、旅行と言えるのか...」
「でも高校の修学旅行は楽しみなんですよ」
「厳島くん...君、アイドルだよ?」
「はい?」
「...多分、忙しすぎて行けないと思うよ...修学旅行」
「……シ〇ト!!」
「〇ッ〇はだめだって、アイドルなんだから...」
学生生活の中でもかなり重要な行事と思われる修学旅行の参加不可が確定したところで、我々一行はようやく目的地の文化会館へと到着した。
開始数時間前にも関わらず、入口には多くの観客が列を為してごった返しており、文化会館周辺にも若者たちが馳せ参じるかの如く、一同に集まっていた。
スター降臨準決勝大会が行われた調布市グリーンホールと比べ、それの2、3倍はあろうかという会場の大きさに圧倒されつつも我々は出演者用の裏口から入ることにした。
駐車場に車を停め、楽屋へと向かう。
季節は秋、枯れ葉が辺りを舞い、少し冷たい風が吹く。愛用のレスポールギターを抱えながら、俺は緊張を紛らわすために息を整えた。
新宿音楽賞のプレステージ同様、マネージャーとは入り口でお別れとなり、タレントだけが楽屋に入ることが許される。宇治正さんは「頑張って」というささやかな声援を送りながら踵を返した。
俺はその声援を背に受けながらも少し立ち止まり、再び歩みを進め、楽屋へと入る。
置かれていた椅子に腰を据えると、ケースの中からギターを取り出しその木の香りを鼻腔に送りながらも、自らの心を落ち着かせると同時に鼓舞をした。
『第17回横浜音楽賞!!』
暗い会場に響く司会の声は、出場者のみならず観客でさえもどこか緊張させる荘厳な雰囲気があった。高揚感と興奮に包れた横浜市市民文化会館ホールから漏れる熱気は例年よりも強く感じられるほどに、今年の新人が粒ぞろいであることを示唆していた。
我々出演者は、舞台裏のセットへと一様に集合し、司会によってレーベルと名前が呼ばれるまでしばし待機とのことであった。衣装のスーツ、首元に巻かれたネクタイと内側のベストを整えつつ深呼吸をする。ポケットには愛用の指サックが片手5本分入っていた。
このサックともいつからの付き合いになるか、ギターを始めた頃にカントリー音楽ばかり弾いていたせいかピックでジャラりと弾くよりも指一本一本をフル活用するアルペジオ奏法が身につき、そのまま素手でやるよりもということで隣町の楽器屋にわざわざ買いに行ったのもいい思い出だ。
金属ゆえか若干サビかけているのは、かつての絶え間ない練習による血の滲んだ努力の結晶ゆえだろう。
こうしてこの場に立てているのは、今までの苦難の賜物だろうか。さてはただ運が良かっただけか。
大舞台を前にして必要以上に思い悩む中、気がつけば既に何名かの歌手が入場していた。
しばし待ち、ついに出番がやってきた。裾を払う。
目を静かに閉じ、精神統一をする。
やがて、スタッフに入場の許可がおりると俺はセットから漏れる光に向かって歩みを進めた。
床のレッドカーペットを革靴で踏みしめ、ひとつ高い段差の上に立った。入場口の真正面、アーチ状に切り抜かれたベニヤ板の向こう側はスポットライトの光で十分に直視することは出来なかった。
途端、会場中に割れんばかりの歓声が巻き起こる。主に女性の甲高い声が重なり、大きな音となって耳を襲った。
「……ぁ」
思わず小さく声が出る。
この歓声が今、自分に向けられているということに対して、どこか信じられないという自信のなさが場違いにも頭に浮かんでしまう。
思えばこうして大きな舞台に立つことがスター降臨以来の事で、さらに多くの観客から割れんばかりの歓声が自身に向かって生み出されるということは初めてであった。――――――――――――
観客席の中に設けられた関係者用の特別シートに座りながら、私は厳島くんの勇姿を眺めていた。
ここに来るのも実に7年ぶりのこと、懐かしい文化会館の香りが当時の思い出を鮮明に蘇らせた。
当時、私はまだまだ名の知れぬ平凡なマネージャーであった。芸能界という大海原で仕事できると、夢にまで描いて上京してきた時の気力はすっかり消え失せ、ただただ変わらぬ不変的な生活で満足していた。
そんな中、世間の脚光を浴びるように登場したのがホワイトバルーンだった。スター降臨決勝戦にて、他の出場者と圧倒的な差異をつけて優勝をもぎ取った実力派の少女二人、世間の目は当時活躍していたクッキーズに相対する存在として注目をしていた。
彼女らのスカウトに成功した時は、まるで宝くじでも当てたような胸の内から心底喜びを感じる興奮を覚えたのは今でも覚えている。
ただ現実はそう上手くは行かず、既に上位を席巻していたアイドル達の壁は分厚く高かった。
今思えば慢心ゆえの失敗だろう。
当初の予定よりも伸び悩んでいた我々は、新人賞レースが近づく度に焦りを感じていた。私はどうにかして彼女たちを売れさせたいが一心にひたすらに仕事を取り付けることに専念した。
その結果か、デビュー当初よりも幾分かテレビへの露出も増えていき、比例するように知名度も数倍に膨れ上がった。そして三大音楽賞の時には既に『ホワイトバルーンブーム』と呼称されるほどに、圧倒的な人気を誇っていた。
だが、今思うと、私はマネージャーとして普通の事をしたまでで、人気獲得の要因はホワイトバルーン二人の絶え間ない努力と自己プロデュース能力が高かったからだろう。
そう思うと自分が不甲斐なくて仕方がない。
だから今度こそ、もし自分でタレントを担当することがあるとするならば、この身を投げ捨ててでも必ずや役に立ち、トップタレントとしての景色を見せてやらねばと決意した。
今ステージに凛とそして悠々と立つ彼を眺め、私は神に祈るように懇願した。
ただ、その時少しだけ彼の才能に甘んじていたことが後悔の引き金になることを私は薄々感じていたのかもしれない。――――――――――――
最初に違和感を感じたのは大会のオープニングが終了した後だった。右手首に何か痛みを感じる。
一応、応急処置として氷の入った袋を当てるといった対策はしたものの一向に痛みが収まる気配は見受けられなかった。
万が一、出場者が怪我をした場合に対処できるよう大会側が医務室を設置していたので、担当の医師に診断してもらったところ『手関節捻挫』という手首の靭帯が損傷していることが分かった。
軽度であれば短くても3週間ほどで完治するらしいが、触診をしてみたところ靭帯が所々切れており、繋がっているのがやっとという状態らしい。
マイクを持つことに支障はきたさないらしいが、俺のパフォーマンスにとって致命的とも言えるギターの演奏を禁止された。
三大新人賞レースにおいて圧倒的なハンデを背負わされることがここで確約してしまった。
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