第26話
「いえ、きみえはまだ帰ってきてません」
「ど、どこにいるか...ご存じですか」
「中の島大橋に行くとか...」
「そ、そうですか...失礼します」
木更津駅から水谷さんの自宅へと向かった我々は、彼女の母親と接触することに成功した。最初は厳島裕二が自宅に来たと驚いていたが、ここまで来た事情を話すと冷静に対処してくれた。
しかし、先程の会話の通りまだ水谷さんは帰ってきていないという。中の島大橋に居るという確実な情報を掴んだ我々は早速待たせていたタクシーに乗り込み現場へと向かった。
26
島へと続く橋が茜色に染まった。
日が傾き、とっくに児童の帰宅を促す市内放送は鳴り終えていた。
この橋は、私と彼が初めてデートをした思い出の地だった。あの頃はお互いにまだ純粋で、平凡な恋人同士愛し合っていた。
私がアイドルという職業に就くと決まった時は心底応援してくれていたし、なによりファン第一号は彼でもあった。
いつからかそんな甘い関係もサビつき始め、彼は段々と私の懐事情に依存していくようになった。
とっくに愛想つかされているに違いないと感じたのは電話越しに聞こえる声がやけに冷たいことと、互いの私生活の話をしなくなった時だった。
私が彼をそう変えてしまったのかもしれない、いつからかそう思うようになった。だから黙ってお金を振り込んでいたし、表面的な彼氏彼女の関係は継続していた。
そんな私がこうして彼に別れを告げるきっかけになったのは厳島裕二という人物と出会ってからだった。私と同い年の子は多くいるものの、彼だけは他と違ってどこか、胸の内に覚悟を据えているような雰囲気を感じ取った。
芸能界という大きな世界で一人、逞しく生きている姿に憧れた。同じアイドルでもえらい違いだ。
追い打ちをかけるように私の心を着き動かしたものは、彼の書いた曲だった。
楽譜に書かれた詞はどこか今の自分と酷似していて、そんな詞の主人公が過去と決別し清々しい新たな人生を歩み出す姿は、今自分の目指すべき人物像であると強く思った。
だからこうして地元に戻ってきた。
彼に別れを告げるため、私は強い意志をいつの間にか燃やしていた。―――――――――
強い海風が髪を逆立てた。
夕暮れ、木更津湾へとやってきた我々は高くそびえ立つ赤い大橋の袂にふたつの人影を見た、のち一人は見覚えのある顔で、俺はその横顔をみつけるなり、状況の把握を優先した。
同い年、または少し年上と思われる男性と2人きり。彼女は何やら男に向かって申し訳なさそうに一言二言、口を開くと深々と頭を下げた。
刹那、男は右手の拳を高く振り上げた。
「水谷さんッ!!!」
思わず叫ぶ、静けさに包まれていた故か良く声が通った。
駆ける、これ以上もう出ないという程に全速力で彼女の元へと向かった。ひとつ遅れて宇治正さんもやってきた。
「厳島さん...どうしてここに」
「し、失踪したと聞いて...探しに」
「そんな...私のためにわざわざ」
「すいません...余計な真似でしたら謝罪します、ただ俺も含め皆不安で...」
水谷さんの安否は確認できた安心したものの、今目の前にいるこの男が彼女に拳を振りあげようとしたことに対して並々ならぬ憤りを感じていた。
とりあえず自身の感情を抑えつつ現状を確認しようと、男と水谷さんの関係を答えられる範疇で質疑した。
「この方は...」
「わたしが、付き合っていた人...です」
「付き合っていた?おい何勝手に別れたことにしてんだよ、きみえ...調子づいてんじゃねぇぞ」
「ちょっと...お、落ち着いてください」
「お前は黙ってろ、これは俺ときみえの関係だ、第一てめぇには関係ねぇだろうが」
「それでも今、女性に暴力を振るおうとしていた人間を、俺は見過ごせません」
「あ?」
「ちょ、厳島くん…」
宇治正さんは場を宥めるように俺を静止した。
ただ相手側も俺の反論に対して苛立ちを隠せず額に青筋を浮かべていた。
「いい根性してんじゃねぇか、たかが芸能人のボンボンがよォ、俺に講釈垂れてんじゃねぇぞッ!!」
「そうやって、自らの思い通りにいかないと怒りに身を任せて何かを傷つける...それに講釈ではありません、常識を教えたまでです」
「...そういうてめぇはどうなんだ?俺が今よぉ、この女ぶん殴ろうとしたら、お前はその口先だけで俺を止められんのか?あぁ?」
「止めますよ、ただ自らの感情でなりふり構わず暴力や暴言を吐く人間と、その対象を守るためにやむを得ず対等の力で迎え撃つことは全く別の意味です」
「ほぉ、じゃあやってみろよ?えぇ?」
男は拳を振り上げ俺の顔を見ながら舌なめずりをした。俺は水谷さんと男の間に割って入る、何としてでも彼女にこの拳を当ててはならないという強い意志を持っていた。
俺は右手を握りしめ拳をこしらえた。
顔は恐らく怒りの表情に包まれているに違いない、目の前にいるこの男はどこか小馬鹿にしたような態度で煽ってくる。
だめだ、ここは抑えろ。そう自分に言い聞かせてあくまで大人の対応をとろうと取り繕った。
後方から光が刺した。
「おぉおぉ、厳島!んな所で何やってんだ!きみえちゃんは見つかったのか!」
「...その声は、いつかの不良兄弟」
「「盛岡兄弟だ!」」
「す、すいません...」
「んで、この状況はどういうこった」
複数のバイクが橋の袂にある駐車場に集まってきた。先頭の一番派手な車体には駅で出会った木更津界隈の不良少年の総大将、盛岡兄弟が跨っていた。
二人は目を細めながら我々4人の姿を視認した。
「ほぉ...なるほどなぁ、兄貴どうするよ」
「んなもん決まってんだろ、この状況じゃどう見ても...選択肢はひとつ」
「「きみえちゃんを助ける」」
2人はバイクを踏み台にしつつ全速力でこちらへ走ってきた。それこそ隼と見間違うほどの俊足、刹那勢いよく飛びかかったと思えば、今目の前で拳を振り上げている男の顔に向かって片脚ずつ確実に蹴りを打ち込んだ。
それこそ蹴っている物がボールであれば、どこぞのサッカー漫画の『ツインシュート』※を彷彿とさせるような姿であった。
ゴロゴロと吹き飛ぶ男、盛岡兄弟はサッと着地したかと思えば水谷さんの両手を跪きながら双方握った。
「大丈夫かい、きみえちゃん」
「悪いやつは今、俺たちが成仏させたからな」
「じょ、成仏はまずいでしょ」
思わずツッコミを入れる宇治正さん。
先程の緊迫した空気はどこへやら、海風へと霧散して消えていった。―――――――――
後日、都内の喫茶店に宇治正はいた。対面するは水谷きみえのマネージャー二階堂であった。彼は運ばれてきたレスカ※を一口含むとスーツの襟を直しつつ宇治正に礼をいった。
「この度は、誠にありがとうございます...自分の無力さに心底憤慨しております」
「いえいえ、そう畏まらずに...こちらも彼女のことが心配で、なにぶん彼女の捜索は厳島くんの希望でしたから」
「そのおかげでうちの水谷は今も無事ですし...なんとお礼を申し上げれば...」
「.....ところで、吉澤 雅人という人物の名前をご存じですか?」
「雅人...いや、分かりません」
宇治正は一枚の写真を取り出した、そこには中学の卒業アルバムの際に取られたであろう、学ラン姿の目つきの悪い少年が映っていた。
「水谷きみえちゃんの、元恋人だそうです...彼」
「さ、さぁ...顔写真を見せられても」
「ひとついいですかね」
「なんですか?」
「私が彼の名前を聞いた時...なぜ貴方はさも親しげに苗字ではなく名前を呟いたんですか」
「...ふ、普段からそうなんです」
二階堂は額から流れる汗をポケットから取り出したハンカチで拭いた。
「裏で繋がっていたんでしょう?この吉澤と」
「なっ...」
「情報は確かです、何せ彼の口から聞きましたから...」
「...」
「なんでこんなことしたんですか...」
「言えるわけが無いだろう」
「...取引をしましょう」
「取引?」
「あなたと吉澤 雅人の関係と、なぜこんなことをしていたのかを自白していただければ、私はあなたを見逃します」
「なっ」
二階堂にとって、今まさに蜘蛛の糸が目の前に垂らされた。救いの一途だ、掴まないはずもなかった。
「俺と吉澤は目的を果たす上でのパートナーだった、彼が俺の指示通りに動けば俺が彼に報酬を払うという雇用主と雇用者という関係だった」
「...」
「目的は...目的は、水谷きみえを引退させることだ」
「なぜ?」
「それは!それは言えない」
「いいや、言わなければならない...この状況なら君はそうせざるを得ないんだよ二階堂くん」
「...恋をしてしまった」
「なに?」
「俺は水谷きみえに恋をしてしまった...だから引退させようとした」
「なるほど...」
「事務所に所属するタレントとマネージャーの恋愛は御法度...なら彼女を引退させてしまえばいい」
「自分の恋のためなら相手のことも考えず犯罪行為も厭わない...つくづく呆れるよ」
腹の底から苛立ちを隠せぬ宇治正、彼にとってタレントという存在は自分たちの働き手であり、彼ら彼女らのおかげで苦労せずに自分は食っていけているという、実に尊敬出来る人種だった。
宇治正にとって目の前の男は、そんなタレントを自らの私利私欲のために陥れようとしたクズであるという認識に今、固定されようとしていた。
「ちなみに言い忘れていたことがある」
「...」
「吉澤が君との関係を自白した場所はな、木更津警察署の中だよ」
「は?」
「自首したんだよ、吉澤は」
「それってつまり...」
「あぁ、君はもう時期 共犯として警察のお世話になると思うよ」
「……嘘…だろ、おい!嘘だよなぁ!」
「さぁな...」
宇治正は静かに店を立ち去った。
残された二階堂は顔を青く染めた。
というのが2ヶ月前の話である。
秋、柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺でお馴染みの季節、俺と宇治正さんは仕事先の楽屋で電話の一報を手に汗を滲ませながら静かに待っていた。
楽屋の扉が開く。
「すいません、宇治正さんにお電話です」
「い、今行きます!!」
「じ、自分も」
思わず楽屋から飛び出し廊下を駆けた。
向かう先は固定電話、電話番の女性が何やら話し込んでいた。
「はい、はい...あ 今来ました...宇治正さんお電話です」
「えぇ、承知ですとも!」
宇治正さんは受話器を受け取るなり素早く耳元にそれを当てた。俺も近くへ耳をよせ、会話の内容を聞いた。
「お電話変わりました、宇治正と申します」
『こちら日本放送 新宿音楽賞選考部部長の岩間と申しますが』
「はい」
『えぇと、おたくの事務所W&P所属の厳島...えぇ裕二くん、こちら新宿音楽祭予選進出が決定致しましたので、ご連絡させてもらいますわ』
「はい、承りました...厳島にも伝えておきます」
『あい、あい...じゃあ失礼致しますわ』
「はい、失礼致します...」
相手側の受話器を切る音が微かに聞こえた。
俺と宇治正さんはその場でハイタッチをした。
パチンっという音はやけに響き渡り、何事かと他の出演者が楽屋から顔を出すほどだった。
「おめでとう!これで3大音楽賞、全て選出された!これは君の力のおかげだよ」
「ありがとうございます!ただ目指すは金賞です!一つでも取れるように頑張ります!」
「その意気だ!」
先程届いた一報は10月に開催される3つの新人賞レース、3大音楽賞のうちの一つ新宿音楽賞への出場決定権の報せであった。
既に残りの2つ、銀座音楽賞と横浜音楽賞への出場権を得られているわけで、今のが最後のひとつだった。
一年に一度開催される新人賞レース、オリコンチャートの結果や一般人による投票、選考委員会による審査等、一定以上の人気を誇る新人アイドルのみにしか与えられな出場権はそう易々と手に入るものでは無い。
そんな賞レースの全大会に出場できるという喜びとともに、この広い音楽業界で確かな人気を誇る強者たちと競い合わなければならないという緊張感が心臓の鼓動を加速させた。
ドクドクという感覚をその身に感じつつも、俺は自然と武者震いをしていた。
――――――――――――――――――――
※ツインシュート
某人気サッカー漫画内に登場する、2人で一つのボールを蹴りあげるというトンデモ技。
ただ、別のサッカー漫画とは違ってボールが炎を帯びたり、背中から化身が出てきたりといった派手な描写がなく、ワンチャン出来るんじゃないかと思わせる範疇の技であるからして、当時全国の小中高生がこぞって真似をしたというのは懐かしい話だそうな。なお怪我人が出たためその漫画内で出てくる技を模倣することを禁止されていた所もあったそう。
※レスカ
レモンスカッシュの略。レモネードがレモン果汁で濁っているとこの呼称になる。
1970.1980年代当時、
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