062 キスと別れと桜庭くん
「
「え……いや、だから僕、恋愛は……もう」
「恋愛のことなんか聞いてない! 私のこと、好き?」
僕の手を握る彼女の力が、またギュッと強くなる。
「手を繋いだら苦しくなる? 目を見ると幸せになる? 顔が近づくと、ドキドキする?」
「……」
「私はしてる。ものすごくしてる。こんな話を聞かされた後なのに、桜庭くんのこと、かわいそうだなって思った後なのに。私はそれでも、桜庭くんが好きで、今もすごくドキドキしてる」
遊薙さんの頬を、涙が伝っていた。
それでも彼女は話せなくなったりせず、はっきりした口調で続ける。
「桜庭くんは? 私のこと、好き?」
遊薙さんは、どうしてそんなことを聞くんだろうか。
ふと浮かんだそんな疑問も、すぐに掻き消えてしまう。
僕はそれよりも、彼女の質問の方を考えてみたかった。
僕は今、ドキドキしているのだろうか。
幸せで、苦しくなっているのだろうか。
……いや。
そんなこと、確認するまでもなく、僕は。
「……僕は、君が好きだよ」
その言葉で、遊薙さんが息を飲むのがわかった。
「だけど……それでも僕は、君と付き合いたいとは思わない。一緒になりたいとは思えない。僕はきっと、君よりも本や映画が好きだから。それが変えられないことも、受け入れられないことも、よくわかってるから。だから、やっぱり」
「ねえ、桜庭くん」
「……」
「付き合うって、どういうこと?」
「……え」
遊薙さんは、まっすぐ僕を見ていた。
もう、涙を流してはいない。
「桜庭くんにとって、男女交際って、どういうもの?」
「それは……だから、一緒に出かけたり、頻繁に会ったりとか、そういう……一般的な付き合い方だよ」
思わず、しどろもどろになってしまった。
けれど、つまりはそういうことだ。
僕が明確に説明できなかったとしても、遊薙さんだってわかっているはずだった。
けれど、遊薙さんは僕を睨んでいた。
それはまるで、怒っているかのような表情で。
「……遊薙さん?」
「……私がそういう付き合い方がしたいって、言った?」
「……」
「桜庭くんとどんなふうに付き合っていきたいって……私にとって男女交際がどういうものかって、私桜庭くんに言った?」
「……いや」
遊薙さんは、やっぱり怒っていた。
そして僕は、なぜ彼女が怒っているのか、これから自分が彼女になにを言われるのか、わかったような気がしていた。
「だって、私たち両想いなのよ! やっとそうなれたの! なれたのに……!」
「……」
「私、桜庭くんが私のこと好きになってくれたんだってわかった時、本当に嬉しかった。もう、飛び上がるほど嬉しくて、何度も部屋のベッドで暴れたし、ずっとニヤニヤして、なんでもできそうな気持ちになった」
「……」
「でも、それは桜庭くんとちゃんと付き合えるって、思ったからじゃないもん! これでやっと、桜庭くんと恋人同士として話し合える、って思ったからだもん!」
僕は、もうなにも言えなくなっていた。
彼女の言葉が、声音が、表情が、まるで僕のダメなところに、鋭く突き刺さっているかのようだった。
「恋愛にルールなんてないもん! 一般的なんて、そんな言葉でまとめられる形、ないもん! 両想いになって、恋人になって、それから二人で、二人なりの形を見つけていくのが、付き合うってことじゃないの?」
「……だけど」
「私のこと好きなら!」
そう叫んで、遊薙さんはテーブルをよけるようにして、僕のそばに来た。
そのまま縋り付くように僕を抱きしめて、肩に顔を埋めるようにして、言った。
「……もっと、信じてよ」
「……遊薙さん」
「もっと、私にわがまま言ってよ……。あんまりデートはしたくないとか、ずっと本を読んでたいとか、学校では秘密にしたいとか……」
遊薙さんは、また泣いていた。
今度は、僕も泣いた。
腕の中にある彼女の身体を少しだけ引き寄せて、遊薙さんの背中を撫でながら、声を上げずに泣いた。
「あるなら、言ってよ……。両想いなら、二人の問題なんだから……! ひとりで勝手に諦めないで、突き放さないで、一回でもいいから、話してみてよ……!」
「……ごめん」
「それを私が嫌がるって、どうしてわかるの? 私を一番に考えてくれなきゃ嫌だって、どうしてわかるの? 私がどれだけ桜庭くんのこと好きか、全然知らないくせに!」
「ごめん……ごめんよ」
「バカ! 桜庭くんのバカ! ホントに、ホントに……好きなんだからぁ……っ!」
「うん……うん」
二人で抱き合って、僕らはそのまま泣き続けた。
僕はバカだ。
本当にどうしようもないくらい、バカだ。
◆ ◆ ◆
「……遊薙さん」
時刻は夜の22時を過ぎていた。
僕らはギュッと手を繋いで、駅までの道をゆっくり歩いた。
「ん、なぁに」
「僕は……きっと、君を悲しませると思う」
「……うん」
「君以外のものを優先したくなったり、一人で過ごしたい時間が多かったり、冷たくしちゃったり……そういうことがあると思う」
「……」
「……だけど」
「……うん」
「だけど……それでも話すから。僕がしたいことも、思ってることも、ちゃんと君に伝えるから」
「……桜庭くん」
「……君は呆れるかもしれない。うんざりするかもしれない。やっぱり、僕なんかやめとけばよかったって、そう思うかもしれない。だけど僕は今、君が好きだから。君と一緒にいるために。君と恋人でいるために。僕の気持ちを、君に分かってもらう努力をするから」
遊薙さんは顔を上げて、ゆっくり僕の方を見た。
優しくて、穏やかで、幸せそうな瞳だった。
「……うん。絶対ね」
「あぁ。絶対に、そうするよ」
駅に着いても、僕らはしばらく一緒にいた。
遊薙さんの電車はまだ何本もあるので、帰宅については問題ないらしかった。
ベンチに座って、僕らは一度だけキスをした。
短くて、だけど印象的で、宝物みたいなキスだった。
僕も彼女も、人生で初めてだった。
「遊薙さん」
「なぁに」
「……ありがとう。今日は、来てくれて」
「ううん。ごめんね、急に押しかけて」
「……それじゃあ、また明日」
「うん。また、明日」
お互いに手を振り合って、僕らは別れた。
駅の中へ消えていく彼女の背中を、僕はしばらくの間、じっと見ていた。
自分の家へ歩きながら、僕は顔を上げて空を見る。
乾いた空気を深く吸い込むと、さっきまでの酔ったような甘い気分が、すうっと冷めていくみたいだった。
僕は星野さんのことを思い出す。
それから彼女と二人で行った、映画館のことを思い出す。
遊薙さんに告白された、放課後の教室を思い出す。
彼女と乗った観覧車で見た、遊薙さんの横顔を思い出す。
そしてそんな場面の全てにいた、あの時の僕を思い出す。
迷っていて、揺れていて、信じていて、けれど確かに間違っていた、バカな自分を思い出す。
息を吐くと、過去の自分が身体から抜けていくのがわかる。
今まで、どうもありがとう。
長くお世話になったけれど、別れはちっともつらくない。
だから、頼むよ。
もう二度と、帰ってこないでくれ。
僕の方も、もう君を呼ばないよう、気をつけるからさ。
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