060 全てを知った藍奈さん


 兄さんの様子がおかしい。


 昨日そのことに気付いた時、私桜庭さくらば藍奈あいなはすぐに静乃しずのさんに連絡を入れました。


『なにかあったんですか。兄さんが死にそうな顔をしています』


 既読マークはすぐにつきました。


『私も死にそう』


 絵文字も顔文字もない、そんな短いメッセージ。

 静乃さんがこんな文面を送ってきたのは、初めてのことでした。


 またか。


 正直、私はそう思いました。

 静乃さんからこういった相談を受けることは、今ではもう日常茶飯事になっていたからです。


 電話に出た静乃さんは、思いのほか落ち着いている様子でした。

 静乃さんは私に、兄さんとの本当の関係、それから、二人に何があったのか、話してくれました。


 嫌がる兄さんを無理やり押し切って、お付き合いを始めたこと。

 それから、少しずついい雰囲気になれていたこと。

 けれど突然、なぜだか関係がギクシャクして、兄さんから別れを告げられたこと。


 信じがたい話でした。

 兄さんもこの人も、どうしてそんな下手な生き方しかできないのだろうと思いました。


 ですが静乃さんのお話は、ちょうど何度かあった、兄さんの様子が変になった時期を踏まえると、驚く程合点がいくものでした。


 静乃さんの話では、もう兄さんとは別れてしまったということでした。

 けれど兄さんは、ああして今にも死んでしまいそうな顔をしている。

 要するに、そういうことなのだろうと思いました。


 静乃さんと話した次の日、つまり今日。

 兄さんは学校から帰るなり、すぐに部屋に閉じこもっていました。

 夕飯を食べる時も、心ここにあらずという様子でした。

 昨日から続けて、これで二日連続です。

 好物なはずのメロンも食べる気にならないあたり、かなり重症なのだと思われます。


 私は自分の部屋に戻り、兄さんがしていたのと同じように、ベッドで天井を見上げました。


『桜庭くん、どうしてる?』


 数時間前に届いていた、静乃さんからのメッセージでした。


 私は、どうするべきなのでしょうか。


 静乃さんのことは好きです。

 大好きです。

 とても綺麗だし、優しくて、大人っぽさも子どもっぽさも、両方を持ち合わせた素敵な人です。


 一方で、兄さんは。


 兄さんは、不器用な人です。

 そして良くも悪くも、まじめな人です。

 それから、人付き合いが嫌いで、いつも本を読んだり、映画を見てばかりいます。

 友達だって、多くないはずです。


 『本当にダメなら、仕方ないと思いますよ』


 『兄さんが幸せなら、それが一番ではないですか』


 私は以前、兄さんにそう言いました。

 それはもちろん本心です。

 兄さんが自分で考えて、やりたいようにやった結果なら。

 幸せになるためなら、それでいいんじゃないかと思います。


 あの人はおバカですが、決して愚かではない。

 私には、それがたしかにわかっていたから。


 ……ですが。


「……そんなに辛そうにしていたら、意味ないじゃないですか」


 私は深く息を吸ってから、スマートフォンを手に取りました。

 メッセージのアプリから、静乃さんとのトーク画面を開きます。


『今日も死にそうです。ずっと自室にこもっています』


『わかった。ありがと』


 ……。


『静乃さん』


『なに?』


『兄さん以外にも、いい人はいるんじゃないですか?』


 私はなぜ、こんなことを言ったのでしょう。

 きっとこんなのは、意味のない質問なのに。


『それ、前に友達にも聞かれたんだけどね』


 けれど、もしかしたら私は、ちゃんとそれが聞いてみたかったのかもしれません。

 静乃さん本人から、はっきりと。


『私が好きなのは、桜庭くんだけよ』


 ねえ、兄さん。


 本当にあなたは、それでいいんですか。


『藍奈ちゃん』


『はい』


『もしかしたら、迷惑かけるかも』



   ◆ ◆ ◆



 スマートフォンの震える音で、僕は我に帰った。


 どうやら、ずいぶん長い間ぼぉっとしていたらしい。

 時刻は夜の20時を過ぎた頃で、夕飯から二時間近くが経っていた。


 振動の正体は、着信だった。

 メッセージアプリの方に、無料通話がかかってきているらしい。

 相手は……。


「……遊薙ゆうなぎさん」


 よく、電話なんてしてくるもんだ……。

 さすがというか、彼女らしいというか……。


「ブロックしとくんだったなぁ……」


 そこまで頭が回っていないあたりが、どうしようもなく情けない。


 僕は着信が止むのを待ってから、遊薙さんのプロフィール画面を表示した。

 ここから操作すれば、アカウントごとブロックすることができたはずだ。


 ふと見ると、遊薙さんのプロフィール画面の背景には、見覚えのある写真が表示されていた。

 僕はその写真に目を奪われ、操作する手を止めてしまった。


「これ……遊園地のときの」


 それはデートで行った遊園地、そこで僕が撮った、遊薙さんの写真だった。

 少し離れたところから、遊薙さんがカメラに笑顔を向けている。

 彼女の視線の先には、僕がいる。


「……」


 やめよう。

 もう終わったこと。

 いや、僕が自分で、終わらせたことだ。


 その時、今度は画面の上にメッセージが表示された。

 これは、今新しく届いたものだ。

 送り主は、案の定遊薙さんだった。


『窓!』


 窓……?


『外!』


 ……まさか。


「……なにしてんだよ、あの人」


 部屋の窓から見下ろせる、家の前のアスファルト。

 そこに、遊薙さんが立っていた。

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