058 嘘と涙と桜庭くん
放課後、僕は
当然ながら、
問題が起きたのだ。
ずっと恐れていた、けれど普通に考えれば、起きるはずのなかった大問題。
『桜庭くんの彼女は私だもん‼︎』
遊薙さんは、きっと爆発したんだと思う。
僕とギクシャクしてしまった不安と、直接話せないモヤモヤと、紗和さん。
だけど、もはや原因は問題じゃなかった。
大事なのは、起こってしまった、という事実、ただそれだけだ。
あの後、
もちろんここで落ち合うまでに、いろいろな困難があったわけだけれど。
部屋は、一時間だけ取ってあった。
ドリンクバーが付いているが、二人ともそれどころではなく、もちろん歌なんて歌うつもりも毛頭ない。
薄暗い部屋で、テーブルを挟んで僕らは向かい合っていた。
「……」
「……何したか、わかってる?」
遊薙さんは俯いて、この世の終わりのような絶望的な表情をしていた。
だけどさすがに、今回は許してあげられない。
なにせ彼女は、『バラさない』という、三つの条件の一つを破ったのだから。
「だ、だって……」
「……あの後、とにかく大変だった。君だって大変だったろ」
「……うん」
「だから、隠してたんだ。こんな普通じゃない関係が、周りの人に理解されるわけない。説明したって納得されない。伝わらない。きっとおもしろおかしく妄想されて、噂されて騒がれる。別れるにしてもそうじゃないにしても、今の状態でバラすことにはデメリットしかない。だから、僕は言ってたのに」
遊薙さんは何も言わなかった。
ただ、肩を震わせて、でも涙は流さずに、テーブルの上で握りしめた自分の手をじっと見ていた。
「……もう、全部白状する」
「……」
「僕は、君にフラれるつもりだった」
「……え?」
「自分から別れを切り出すつもりなんて、もともとなかった。それはもちろん、君が惜しかったからじゃない。君が僕に興味を無くして、目を覚まして、自分から去っていく。そしてこんな関係があった過去ごと、全部なかったことにするつもりだった。その方が、お互いのためになるからだ。僕から無理やりフったって、どうせ君はまたゴネる。それにもしそんなことが広まれば、きっとややこしいことになる。僕には非難が集まって、君には不要な過去が出来る」
「……」
「でも、君が自分から僕を捨てれば、僕はただの哀れで馬鹿なやつになれた。君にも、傷はつかなかったのに。それで、終われたのに」
自分の頭に血が上っていくのがわかった。
僕は一度言葉を切って、二回、ゆっくりと深呼吸をする。
目的は、怒ることじゃない。
彼女に今の状況と、僕の気持ちを理解してもらうことだ。
「……だからそうしようと思って、君にフラれるのを待ってた。条件だって、そのためのものだ。つまらなくさせて、窮屈にさせて、君が僕に飽きるように。こんなやつやめとこうって、そう思うように。自分の見る目の無さに気づいて、正しく僕を、捨てられるように。そう……思ってたのに」
「……」
「……でも、今日でそれも終わりだ」
「……桜庭くん?」
遊薙さんが初めて、顔を上げた。
瞳が潤んで、唇が歪んでいる。
綺麗なのに、ひどい顔だ。
だけど、彼女の瞳に映る僕の顔は、もっとひどかった。
「……別れよう。いや、別れる。もう、こんな茶番は終わりだ」
「……え?」
「お互い、まだしばらく苦労するだろうけれど、それは仕方ない。バレてしまった以上、みんなが何かしらの解釈に落ちつくまでは詮索されるはずだ」
「さ……桜庭くん?」
「なにか聞かれたら、君が僕に愛想を尽かしてフった。そう答えるんだ。あとはお互いに、ほとぼりが冷めるまで耐えるしかない。だけど、さすがに一ヶ月もすれば」
「や、やだ! 私、別れないよ! 別れたくない!」
僕の言葉を遮って、遊薙さんが叫んだ。
彼女の頬を涙が伝う。
僕はギュッと目をつぶって、同じように溢れ出しそうになる涙を押し返した。
「別れるんだ。こんな関係は、もう続けられない」
「……私が……バラしちゃったから?」
「……違う。それはきっかけだよ。もともと、もう限界だった。僕が君を……いや」
なぜ、僕はこんなになっているんだろう。
どうして僕の方まで、泣いているんだろう。
「……とにかく、もう終わりだ。君がなんと言っても、僕はもう君とは関わらない」
遊薙さんがなにかを口にしてしまう前に、僕は立ち上がった。
ふたり分の料金をテーブルに置いて、彼女の顔も見ずに部屋を出る。
遊薙さんは引き止めることも、追いかけてくることもなかった。
それが今の僕には、本当にありがたかった。
カラオケボックスを出て、自宅へ向かう。
もう、涙は出なかった。
夕陽に染まる空から無理やりに目を逸らして、僕は黙って歩き続けた。
「……くそっ」
一つだけ、遊薙さんに嘘をついた。
『君が惜しかったからじゃない』
違う。
僕は、遊薙さんを手放したくなかったんだ。
だから、こんなことになる前に、もっと早くに、別れを告げることができなかったんだ。
自分から彼女を手放せない。
その理由を、都合よくこじつけていただけなんだ。
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