055 今日は帰ろう桜庭くん


「ねぇ、桜庭さくらばくん」


「……なにさ」


いしもりさんって やっぱり仲良いの?」


 遊薙ゆうなぎさんにそう言われて、僕はふっと我に帰ったような気分だった。

 意識の中に、自分と遊薙さん以外の人の顔が浮かんだからだろうか。

 けれど、僕にとってはありがたいことだ。

 今の僕は少し、感傷的になりすぎているような気もするし。


「まあね。趣味が合うから」


成瀬なるせさんみたいな感じ?」


「そうだね。だから本当に、ただの友達だよ」


 僕の言葉に、遊薙さんは意外そうな顔をしていた。

 僕は自分の顔がほんのり熱くなるのを感じて、思わずそっぽを向いてしまった。


「……まあ、だけど成瀬さんは、読書好きなのが同じってだけなんだ。紗和さわさんは、作品の好みまですごく近いから」


「へ、へぇ……」


「読書好き、映画好きな人はけっこういるけれど、僕と好みが似てる人は滅多にいないからね。そういう人は貴重だし、ありがたい」


「……そっか」


 遊薙さんが下を向くのがわかった。

 交互に前に出る自分の足先を、いじけたように目で追っている。


「そういう人たちと話すのが楽しいし、そういう時間が好きだ。でもきっと、遊薙さんは僕がそうすることが、嫌なんだろうね」


「い、嫌って言うか……だって」


「いいよ、わかってるから。そう思う方が、きっと普通なんだろうしね」


 だけど、これが僕の本心だ。

 この考え方はこれからも、決して変わらないだろう。

 それはたとえ遊薙さんを好きになったって同じことだ。


「……それが、桜庭くんが恋愛が嫌いな理由、なのよね」


「うん」


 正しくは、僕が恋愛に向いてない理由だ。

 僕の中で、向いてない理由と嫌いな理由は明確に分かれている。

 けれど、それを遊薙さんに説明しようとは、さすがの僕も思っていなかった。


「そ、そうよね、やっぱり……」


 その二つの違いが、僕以外の人にとってそんなに重要なものだとは思わなかったし、理解してほしいわけでもなかったんだ。


 ……なのに。


「ねえ、それじゃあ桜庭くんの好きなもの、私も好きになりたい! 教えて!」


 彼女のその言葉を聞いた途端、僕の脳裏に声が響いた。


 『だって、桜庭くんが好きって言ってたから!』


 頭が痛い。

 顔が歪んで、視界がぐるぐる回る。

 心臓の奥から嫌なものを引っ張り出されるような、強烈な不快感に襲われる。

 下手をすると、今にもしゃがみ込んでしまいそうだった。


 『好きな人の好きなものだもん、好きにならなくちゃ!』


「……そういうの、やめて」


「えー。でも、私だって桜庭くんと同じ趣味になりたいもん」


「いいから」


「だってね! そうすればもっと、桜庭くんとも仲良く」


「やめろって‼︎」


 思わず、大きな声が出た。

 隣にいる遊薙さんが、息を飲むのがわかる。


「えっ……その……でも」


 これは、怒りなのだろうか。

 それとも、悲しみなのだろうか。


 そんなこともわからないほど、僕の頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「……もう二度と、そういうこと言うな」


「……桜庭くん……?」


 立ち止まって、僕は深く深く息を吸った。

 ゆっくりと吐きながら、蘇りかけた記憶を必死に送り返す。


 ダメだ。

 冷静さを失うな。


 遊薙さんは悪くない。

 これは僕の問題だ。

 僕が勝手に傷ついて、失望して、拒絶してるだけだ。


「……ごめん、言い過ぎた」


「……ど、どうしたの?」


「なんでもない……。でも、今日はもう帰るよ」


「え、そんな! 桜庭くん!」


 これ以上一緒にいたら、自分がなにを言うかわからない。

 繋いでいた手を振り解いて、僕は遊薙さんに背を向けた。


「……ごめん。今は君の顔、見たくないんだ。……気をつけて帰って」


 返事も聞かないうちに、僕はさっさと足を動かした。

 追いかけてきたり、呼び止めたりもしないでくれた遊薙さんには、正直感謝しかない。


 帰ろう。

 帰って、本を読んで、ゆっくり寝よう。

 その後自分がどうなるかは、わからない。

 でも今は、とにかくなにも考えたくなかった。


「……くそっ」


 ダメだ。


 やっぱり、恋愛はダメだ。

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