053 まだ言えません桜庭くん


 映画を見終わっても、藍奈あいなはまだ帰ってこなかった。

 スマホに入っていたメッセージによると、今日は遅くなるらしい。


「藍奈、どこ行くか言ってた?」


「ううん、私にはなにも」


 ふむ。

 遊薙さんも聞いていないとなると、これはたぶん、意図的に隠しているのだろう。

 おそらくは僕と遊薙さんに変な気を回したんだろうけれど、今回は本当に余計だったと言わざるを得ない。


 ただ、僕らの間の気まずい空気はひとまず、一応は鳴りを潜めていた。

 まあそれも、ほとんどは遊薙さんの明るさのおかげだ。


 僕らはまた、部屋でのんびりと過ごした。

 スマホで漫画を読む彼女と、小説を読む僕。


 正直なところ、僕はこの時間が、そんなに嫌いではなかった。

 むしろ、遊薙さんとふたりきりだというのに、思った以上に気が楽なのだ。

 そうなってくると、彼女をうちから追い出すのも申し訳ないし、その必要性も感じない。


 もし、彼女との交際が、この先もずっとこれほど気楽なら。


 僕はふと頭に浮かんだそんな想像を、短いため息でかき消した。

 男女交際というのは、そんなに単純なものじゃない。

 今はそれで済んでいたって、絶対にいつか、私生活に侵略を始める。

 僕にはそれが耐えがたくて、そんな僕の考え方が、きっと彼女には耐え難い。


 だから僕は、絆されてはいけないのだ。

 たとえ彼女に、惹かれているかもしれなくたって。


「桜庭くんっ」


「なっ! ……なんだよ、急に」


 驚いた……。

 どうやらいつのまにか、ボーッとしてしまっていたらしい。


「お腹空かない? そろそろ夜だし」


「……ああ、まあ」


「藍奈ちゃんも帰ってこなさそうだし、私が何か作ろっか? 食材使っていいなら」


 遊薙さんは屈託のない笑顔でそんなことを言った。

 正直、ありがたい申し出だ。

 僕は基本的に、料理が苦手ではないにしても、好きじゃない。

 作っている間は目が離せないし、けっこう時間もかかる。

 そんなに食事というものにこだわりがない僕は、料理へのモチベーションがすごく低いのだ。


「でも、いいの?」


「うん! 私も一緒に食べていい?」


「それはもちろん。じゃあ、お願いするよ」


 なんだか、さっきあんなことを言ったそばから遊薙さんに甘えてしまったけれど、彼女の厚意を無下にするのも、それはそれで申し訳ない。


 僕らは二人で一緒にリビングに降りた。

 「桜庭くんは待ってて」という彼女の言葉に甘えて、ソファで本の続きを読む。


 しばらくすると、いい匂いとなにかが煮える音がして、遊薙さんが作っているのがカレーだと分かった。

 自分のうちで、他人が作ったカレーを食べる。

 うぅん、なかなか珍しい経験なのでは。


「はい、お待たせ!」


「おおっ」


 テーブルに並べられたふたり分のカレーは、なぜだか母さんが作るそれよりも美味しそうに輝いていた。

 うちにある物で作ったのに、いったいなぜ。


「いただきます」


「いただきます」


 最初の一口でわかるほど、遊薙さんのカレーは非常に美味しかった。

 やっぱり母さんのとは違う。

 なにか隠し味や、特別なコツがあるんだろうか。


「それは秘密です。私の旦那さんになればわかるかもねー」


「またそういうことを言う」


 クスクスと嬉しそうに笑う遊薙さんと向かい合って、僕は食事を進めた。

 食べ終わった頃には時計も19時を指し、外も暗くなっていた。


『20時には帰ります』


 そんなメッセージが藍奈から届いたことで、遊薙さんもその頃に帰ることになった。


 食器の片付けを終えてリビングに戻ると、遊薙さんはソファにもたれてバラエティ番組を見ていた。


「あ、桜庭くんお帰り」


「うん。ありがとね、夕飯」


「ううん、私も楽しかったから。それに、なんだか新婚さんみたいで、ちょっとドキドキしたなぁ」


 遊薙さんがそんなことを言うので、隣に座ったばかりの僕はまた少し居心地が悪くなってしまった。

 僕がなにも答えられずにいても、遊薙さんはあまり気にした様子もなく、楽しそうにテレビを眺めている。


「……」


「……」


 ソファに置いていた僕の手に、遊薙さんの手が重なった。

 弱い力で僕の手を握って、指を絡めてくる。

 それでも彼女は前を向いたままで、僕も同じようにしていた。


 僕の意識が、テレビから離れるのがわかった。

 いや、ひょっとすると初めから、僕の注意は彼女の方にしか向いていなかったのかもしれない。


 ふたりとも、なにも言わない。

 僕はただ、左手から伝わる遊薙さんの熱と、彼女の微かな息遣いだけを感じている。

 彼女がどんな顔をしているのか、どんな目をしているのかもわからないまま。


 どうして僕は今、こんなことをしているんだろう。

 どうして彼女の手を振り払わないのだろう。


 どうして僕と遊薙さんは、こんなことになってしまったんだろう。


「……手、このままでいいの?」


「……握ってきたの、そっちでしょ」


 きっと、僕の性格のせいだ。

 そして、彼女の感情のせいだ。


 僕がこんな人間じゃなければ。

 彼女が、こんな人間を選ばなければ。


 こんな間違いが起こらなければ、きっと僕らは別々に、けれどしっかりそれぞれに、幸せだったはずなのに。


 僕はわかってしまった。

 もう、誤魔化せなくなっていた。


 いつまでも自分を騙し続けることはできない。

 気持ちとは、向き合わなければ。

 向き合った上で、どうするか、決めなければ。


 ……けれど。


「桜庭くん。……好き」


「……」


 『僕も、君が好きだ』って。

 そう答える資格も、覚悟も。


 僕にはまだないんだよ、遊薙さん。

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