044 お見通しです藍奈さん


 リビングのテーブルには、野菜炒めと味噌汁と白米という、シンプルな夕飯が用意されていた。

 遊薙さんが来た時のような豪勢さはないけれど、僕はどちらかといえばこういうメニューの方が好みだ。


 椅子に座って、藍奈あいなの分のお茶を注ぐ。

 藍奈は少し遅れて、二人分のお箸とふきんを持ってキッチンから戻ってきた。


「いただきます」


「いただきます」


 ふたりで手を合わせて、粛々と箸を進める。

 僕ら兄妹はお互い口数が多くないため、一緒に食事する時も黙っていることが多い。

 もちろん、家族なのでそんな沈黙が気まずかったりもしない。

 それに食事くらい、静かにしてもいいだろう。


「どうですか」


 と、そんなことを思ったすぐ後に、藍奈は僕に向かって言った。


「美味しいよ」


「そうですか」


 きっとこれは、あまり意味のない質問だ。

 藍奈からの、今日は話すことがある、という意思表示に過ぎない。

 妹のことだ、それくらいわかる。


「なにかあったんですか」


「なんで」


「兄さんが自分の部屋で考え事なんて、珍しいですから」


「そうかな。べつに、よくあると思うけど」


 嘘だった。

 僕は基本的に、自分の部屋では考え事をしない。

 学校やお風呂、移動中、食事中、そんな場面がほとんどだ。

 僕が藍奈のことをよく知っているように、藍奈も僕のことを知っている。

 下手な言い逃れはできないだろう。


「……なにもないよ」


「そうですか」


 藍奈は少しだけ箸を止めてから、僕を見た。


「私はてっきり、静乃しずのさんとの関係でなにか、悩んでいるのではないかと思っていたのですが」


「ぶっ! ごほっ、ごほっ!」


 味噌汁を飲んでいた僕は、藍奈のピンポイント過ぎる言葉に思わずむせ返ってしまった。


「な、なんで急にそんなこと……」


「昨日は静乃さんとのデートだった、と聞いているので」


「なっ、誰に?」


「もちろん、静乃さんです。友達ですから、私たち。友達から恋愛相談を受けるのは、よくあることでしょう」


 くそぅ、そういうことか。

 遊薙さんめ……。

 いや、この場合は藍奈にやられたと考えるべきなのだろうか。


「否定は、しないんですね」


「……今さら否定してもな」


 あんな反応をしてしまった後では、かえって逆効果だろうし。


「なにがあったんですか」


「詳しくは言いたくない。思うようにいかなくて困ってる。話せるのはそれだけだ」


「……ふむ」


 藍奈は短く唸ると、野菜炒めを口に入れてもぐもぐと咀嚼した。

 ものを口に入れながら話すのを藍奈は嫌う。

 少し、考えているのだろう。


 それにしても、居心地の悪い夕飯になったもんだ。

 どうやら藍奈は、すっかり遊薙さんの軍門に下っているらしい。

 僕を無理やりここへ呼んだのはこのためか……。


「まあ、どうせ兄さんが馬鹿なことをして、静乃さんとうまくいっていないと、そんなところでしょう」


「……」


 実際には、その逆だ。

 つまり僕は、このままだと遊薙さんとうまくいってしまいそうなのだった。


「たしか兄さんには、中学生の頃にもお付き合いしていた方がいましたよね」


 そう言った藍奈の声には、一切の悪意が含まれていなかった。


「……ああ、そうだね」


 それなのに、僕はとても嫌な気持ちになり、藍奈への怒りすらも感じてしまっていた。


 僕の気持ちを知ってか知らずか、的確に触れて欲しくないところに触れてくる。

 特にその過去は今、僕が最も思い出したくないことだった。


「あの時も、すぐにダメになってしまっていたでしょう」


「……まあね」


 ダメになった、というのはつまり、別れたということだ。

 そんな言い方をするのは、実に藍奈らしいと思った。


「どうしてダメになったんですか」


「僕がダメなやつだからさ」


 そう、僕がダメなやつだから。

 恋愛には向かない、どうしようもないやつだから。


 嫌な記憶。

 思いだすと、未だに虚しい気分になる、あのセリフ。


 『だって、桜庭くんが好きって言ってたから!』


 あの子は言った。

 もう顔もおぼろげだけれど、この言葉と声だけは、はっきり覚えてる。


 僕が恋愛を嫌いになった、無理だと思った、そのきっかけになった言葉。


「兄さん、もう、まじめに答えてください」


「まじめだよ」


「……えっ」


「僕はまじめだ」


 戸惑ったような顔をした藍奈を置いて、僕は立ち上がる。

 こんなこともあろうかと、お皿を早めにカラにしておいてよかった。


 あの時、僕は本当にまじめだった。

 真剣だった。

 そしてだからこそ、ダメだった。


 自分が恋愛に向いていないって、決定的にわかってしまったんだ。

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