032 やはりブレない桜庭くん
いつのまにか、手元のカフェオレはすっかり空になっていた。
僕は伸びをして、お店の天井で回るシーリングファンを見上げる。
「……ふぅ」
急に押し寄せてきた目の疲れに、僕は読みかけだった本を栞も挟まずに閉じてしまった。
今直面してる問題、『どうすれば遊薙さんが僕を諦めるか』についてのヒントを求めて恋愛小説を読んではみたものの……はぁ。
結局、ヒントを得るどころかあまりにも共感できず、目が滑ってまともに読むこともできなかった。
特に、ヒロインの女性の心理が全く理解できない。
恋愛小説っていうのはどれもこんな感じなのだろうか。
いや、普段読まないからと言って、偏見はよくない。
きっと不運にも、作者と僕の波長が合わなかっただけだ。
そんなことは、読書では日常茶飯事。
むしろ完全に登場人物に共感できる方が珍しいというものだろう。
ただ、やっぱり自分と相性の悪い本を読むのは疲れる。
このカフェの落ち着いた雰囲気のおかげでそれなりに頑張れたけれど、さすがに今日のところはこれでお手上げだ。
壁にかかった時計を見ると、もう22時前。
あと少しで閉店時間だ。
気づけば店内のお客さんは僕だけになっていた。
お店の人たちが、奥で片付けを始めている気配がある。
集中も途切れたことだし、そろそろ帰ろう。
グラスを返却台に返し、伝票を持ってレジへ。
カフェオレだけで長いこと居座ってしまって、なんだか申し訳ない気持ちだ。
「ご、550円です」
「はい」
千円札で支払いをして、お釣りを受け取る。
さて、帰ったらどうしよう。
続きを読む気にもならないし、楽しみにしてたミステリーでも読もうかな。
「あ、あの!」
「……え」
不意に声を掛けられて、僕は気の抜けた声を上げてしまった。
振り替えると、さっき会計をしてくれた学生風の女の店員さんだった。
「あれ。僕、なにか忘れてましたか」
財布は持った、スマホもある。
なんだろう、いったい。
「あ、えっと……そうじゃなくて……!」
「……」
「こ、これ!」
そう言って差し出されたのは、二つに折られた小さな紙だった。
「……これは」
「え、えぇっと……私の、メッセージのIDなんですけど……その、よかったら……」
「……」
えっ。
メッセージのID……?
それをなんで、僕に渡すんだろう……。
なにかの勧誘とかだろうか。
……あ。
「……もしかして、『逆ナン』ってやつですか?」
「えっ⁉︎」
僕の質問に、店員さんはなぜだかとっても驚いた様子だった。
ひょっとすると僕は、とんでもなく失礼なことを聞いてしまったのでは……。
「あ、いや、その……逆ナンっていうか、なんというか……」
「すみません、僕の勘違いですよね。失礼しました」
さすがに、そんなわけがなかった。
ただ僕の知識では、こういうシチュエーションに似合いそうな言葉がそれくらいしか思いつかなかったのだ。
しかし無知と察しの悪さは紛れもない罪だ。
しっかり謝っておかなければ。
「それで、そのIDを僕はどうすれば……」
「あ、あの、えっと……ぎ、逆ナンです!」
「えっ」
えぇっ。
「その……そういう言い方が正しいかどうかはわからないんですけど……あなたとお友達になりたいので……連絡先を交換してくれませんか……?」
逆ナンだ……!
やっぱり逆ナンだった。
この世に本当にあったとは……しかも、僕が体験するなんて。
だけど、どうすればいいんだろうか。
普通に考えると、僕には仮にも遊薙さんという恋人がいるわけだから、丁重にお断りするべきなのだとは思うんだけど。
でもこの人は、友達になりたい、と言った。
恋人とかではなく友達なら、別に構わないのじゃないだろうか。
ただ、それにしても……。
「あの、どうしてですか?」
「えっ!」
「どうして、僕と友達になりたいんでしょう?」
「そ、それは……その……」
「……」
「……お、覚えてませんか? 私、何ヶ月か前に、あなたに助けてもらって……」
「助けた……? あの、どういうことですか」
僕が尋ねると、その人は数ヶ月前にあったという出来事を話してくれた。
要約すると、グラスを落として割ってしまったこの人を、僕が助けた、らしい。
なんだか言われてみると、そんなこともあったような気もしないでもない。
でも、なかったような気もする。
つまり、正直なところ。
「えっと、あんまり覚えてないかも……」
「そっ! ……そうですか」
たぶん、その時も僕は本を読んでいる途中だったんだろう。
この人を助けて、すぐに読書に戻って、忘れた。
そんなところだと思う。
「ってことなので、もう気にしてくれなくていいですよ?」
「き、気にしてるわけじゃないんです!」
「……」
「た、ただ、あなたのこと、すごく気になっちゃって……それで、仲良くなりたくて……だから」
「……えっと、それはつまり、友達になりたいんじゃなくて……?」
「は、はい! その……お、お付き合いを前提に、デートしてください!」
その人は、覚悟を決めたような切羽詰まった表情で頭を下げた。
どうやら、やっぱりこれは逆ナンだったらしい。
しかしそうなると、さすがに話は変わってくる……。
「ごめんなさい、無理です」
「え……あっ……その」
「お付き合いしてる人がいるので」
「あ、そ……そうなんですね! あはは……そうですよね」
顔を上げたその人は、今にも泣き出しそうな顔をしてしまっていた。
途端、僕の脳裏に
あの時の成瀬さんも、たしかこんな顔をしていたと思う。
それにしてもこれは、やっぱりものすごく……。
「す、すみませんでした! 失礼します!」
その人はそう叫んで、お店の奥へと走って行ってしまった。
あまりに気まずかったので、僕はそのままそそくさとお店を出た。
やっぱり、すごい罪悪感だ。
僕が悪いわけじゃない。
それはわかっていても、自分の言葉のせいで女の人にあんな悲しい顔をさせてしまうというのは、とても心が痛むような気がした。
「……遊薙さんも、あんな顔をするんだろうか」
帰り道をゆっくり歩きながら、僕は頭を振ってその想像を掻き消した。
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