019 悩み尽きない御倉さん


 パタン、と文庫本を閉じる音が、部屋に虚しく響く。

 同時に大きなため息がこぼれ、私はやけに重くなったように感じる身体をベッドに横たえた。

 

 碧人あおとくんに借りた本は、次の日の夜に読み終わってしまった。


 内容自体が自分の肌に合ったかといえば、そういうわけでもない。

 ただ、碧人くんはこういう本が好きなんだな、とか、読み終わればまた碧人くんと話せる、とか。

 そういうことを考えていると、ページをめくる手が止まらなかったのだ。


 この本は、昨日まではずっと碧人くんの部屋にあったのだろう。

 それが今、私の手もとにある。

 そう思うと、私はなんだか苦しいような、嬉しいような不思議な気持ちになるのだった。


 昨日カフェで会った碧人くんは、いつものように飄々としていた。

 何者にも流されず、どこにいてもどんな時でも、自分のペースと空気感を崩さない彼。

 それでいて、なぜだか困っている者を放っておけない彼。


 私はそんな彼のことが、ずっと気になって仕方がなかった。


「……はぁ」


 うつ伏せになって枕に顎を乗せると、またため息が漏れた。


 彼と知り合ったのは去年、一年生の一学期だった。


 当時、学級委員になった私には、頻繁に雑用のような仕事が与えられていた。

 当然のように回ってくるその仕事を、私は面倒だとも、嫌だとも思わなかった。


 誰かがやらなければならないなら、きっと私がやるのが一番効率がいい。

 それに他人の能力と責任感の不足に対していきどおるのは、ストレスの元だ。


 自分でその役割につけば、やり忘れや失敗が全て、自分の責任にできる。

 私はそういう考え方で、これまでやってきたのだ。


 だから仕事を手伝ってほしいなんて、思ったことはなくて。


『でも、二人でやった方がもっと効率がいいよね』


 初めて助けてくれた日。

 大量の教科書を並んで運びながら、碧人くんは私に言った。


『そうかもしれない。けれど、協力してくれる相手を探す時間だって、もったいないというものだろう』


『つまり、僕が自分で気づいて助ければ良いってことだよね』

 

『それはまあ……そうだが』


『じゃあそれでいこう。もちろん、気づかない時もあるけどね』


 得意げにそんなことを言う碧人くんは、私の方を見ずにクスクス笑っていた。


『それにしても、君はなんだか理屈っぽいな。普段からそうなのか?』


 なんだかうまく言いくるめられたような気がして、私はそんな皮肉を言ってしまった。

 今思えば、子供っぽかったと思う。


 けれど、彼はそんな私に対して。


『まさか。こうでも言わないと御倉みくらさん、素直に助けさせてくれないだろ』


『えっ……』


『効率なんて、本当はどうでもいいんだ。君が一人で仕事をするのが、僕には気持ち悪い。ただそれだけのことだよ』


 冗談めかして笑ったあの時の碧人くんの顔は、今でも私の脳裏に焼き付いている。

 悪戯っぽい無邪気さと、それでもやっぱり優しさに満ちた、その目。


 結局私は、あの瞳に今でも恋をしているのだった。


 しかし……。


「……興味はない、か」


 男女交際についてどう思うか。

 私の質問に、彼はそう答えた。

 自分の趣味のための時間が、異性との交際によって減るのが嫌だと。


 ずっと、碧人くんが私のことをどう思っているか、そればかり考えていた。

 けれど、私個人に対する感情以前に、彼は恋愛そのものに対して積極的ではないらしかった。


 むしろ、碧人くんは私のことを、魅力的だと言ってくれた。

 それは本当に嬉しい。

 昨日なんて、入浴中に思い出して湯船で叫んでしまったくらいだ。


 だが、同時に私はこうも思った。


 碧人くんはそもそも私に関心がないからこそ、そんなことを言ってくれるのではないか、と。

 クラスメイトとして、友人としての私にこそ興味はあれど、異性としての私は彼の眼中にないのではないか、と。


 そしておそらく、その推測は当たっている。


「はぁぁあ……」


 もう何度目か分からなくなったため息をついて、私は仰向けになる。

 天井を見ていると、彼の顔が浮かぶような気がした。


「碧人くぅん……」


 思わず情けない声が出る。


 もう一つ、この恋路には大きな障害があった。

 それは何を隠そう、遊薙ゆうなぎさんの存在である。


 遊薙静乃しずの

 いつの間にか碧人くんに近づき、あろうことか友人関係にまでなっている、あの


 絶対、あの娘は碧人くんに惚れている。

 間違いない。もう、100パーセント。


 でなければ、あんなに頻繁にうちのクラスに来て、碧人くんと話したりするわけがない。

 それに、話している時の顔が完全に恋をしている者のそれだ。

 碧人くんも人がいいからああやって相手をしてしまっているが、くそぅ……。


 しかし、いったいいつ、なぜあんな娘が碧人くんに惚れたりなんてしたのだろうか。


 いや、たしかに碧人くんは素敵な男の子だ。

 カッコいい。かわいい。落ち着いている。優しい。けれど時々冷たい。いい匂いがする。目が綺麗。

 などなど、良いところを列挙すればキリがない。


 けれど、遊薙さんと関わりがあったようには思えない。

 もしあれば、私が気づかないわけがない。


 まさか、学外か?

 だとすれば合点はいくが、可能性は低いはず……。


 ……いや、今そんなことを考えても仕方がない。

 問題は、彼女がとんでもない美人であり、人柄も申し分なさそうである、ということだ。


 正直親しいわけではない。

 が、周囲の評判や噂、それから少し観察した印象からも、遊薙さんがいわゆる『いい子』であることはよくわかった。


 おまけに、愛嬌がある。

 活発さと奥ゆかしさのバランスも良い。


 要するに、強敵なのだ。

 一番戦いたくなかった相手と言っても過言ではないかもしれない。

 

 恋愛に興味がない碧人くんに、遊薙静乃……。

 御倉みくら柚莉ゆずり、初恋は茨の道、か……。


 だが、だからと言って諦められるほど、この恋心は小さくはないというものだ。

 私は絶対に、なんとしても碧人くんの恋人になる。

 すでに心も身体も、彼に捧げると決めている。


 ただ、そのためには戦略が肝心であることは言うまでもない。

 作戦を練らなければならない。

 恋愛に後ろ向きな碧人くんをその気にさせつつ、恋敵に彼を渡さない、そんな作戦を……。


 ………………。


 …………。


 ……。

 

 そうか、その手があったか!


 自分の閃きの鋭さに、私は思わずベッドから飛び起きていた。


 善は急げ。

 そうと決まれば、早速行動あるのみだ。

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