005 非情になれない桜庭くん


「あー! もう無理! やだ!」


 その日の放課後。


 教室に入ってくるなり、遊薙ゆうなぎさんは綺麗な声でやかましく騒ぎ出した。


成瀬なるせほのかさん……小動物系で大人しくて可愛くて、いい子……だけど! たしかにそうだけど! 人の恋人に色目使うなんて許せない! 断じて! 知らないから仕方ないんだけどっ!」


 両手で自分の頬を包みながら、遊薙さんは手近な席に座った。


 いつもの愛嬌はどこかに消え去り、不機嫌と怒りが前面に出ている。

 それでも抜群に綺麗なところは、さすがは完全無欠の美少女遊薙さん、といったところだろう。


「やっぱりその話か……。だから会いたくなかったんだよ、僕は」


「やだ! こんな気持ち押さえ込んでたら、私何するかわからないもん!」


「なんだよ、こんな気持ちって」


 僕が尋ねると、遊薙さんはガバッと机に顔を伏せて、消え入りそうな声で言った。


「……やきもちと不安」


「不安って……遊薙さんともあろう人が」


「不安だもん! もうすっごく不安! 昼休みだって何度も泣きそうになったんだから!」


「そ、そんな大袈裟な……」


 顔を上げて、口元を歪ませながら遊薙さんが叫んだ。

 あまりの綺麗さと迫力に、僕はたじろいでしまう。


「大袈裟じゃないもん! 桜庭さくらばくんが他の女の子と仲良くしてるのなんて、見たくない! 私以外の子を先に好きになっちゃうんじゃないかって、どんどん悲しくなって……」


「だから、あんな顔で成瀬さんを睨んでたのか……。彼女、怖がってたよ」


「それは反省してるもん……! だけど、私にはそれをやめさせる権利なんてないし。桜庭くんの交友関係だって、大切にしたいし……でもつらくってぇぇえ……」


 遊薙さんはそう言って頭を抱えていた。


 けれどやっぱり、遊薙さんは律儀というか、真面目な人らしい。

 正直もっと不満を言うのかと思っていたのに、彼女はどうやら、ただ現状を嘆いているだけのようだった。


 いろいろと釘を刺すつもりだったけれど、これじゃあ不発どころか、少し彼女に申し訳ない気さえしてくる。

 いや、一般的に見ればきっと、僕の方が酷いやつなんだろう。


 でも、僕はこういう人間なんだ。

 だから「やめといたら」って言ったのに……。

 これじゃあ、お互いに苦しいだけじゃないか……。


「……一つ、訂正しておきたいんだけど」


 僕は座らず、机に腰を預けたまま遊薙さんを見下ろした。

 こちらを見る彼女の目は、もうすでに潤み始めている。


「成瀬さんは別に、僕に色目を使ってるわけじゃないと思う」


「使ってるわよ! 絶対あの子も桜庭くんのこと好きだもん!」


「彼女はただの読書友達だよ。良い関係だとは思うけど」


「いいえ、私にはわかるんだから。あれは恋する乙女の目よ」


 なんだそりゃ……。


 それにしても遊薙さんといい和真かずまといい、みんなすぐ恋愛に繋げたがる。

 そんなに恋愛が好きなんだろうか。


「じゃあ聞くけど、桜庭くんが成瀬さんと仲良くなったのはどうして?」


「えぇ? ……僕が図書館に通ってて、彼女が図書委員だから?」


「はずれ。正解は、書架の整理中に脚立から落ちそうになった成瀬さんを、桜庭くんが助けたから、でした」


 遊薙さんはそんなことを得意げに、そして淀みなく言ってのけた。


 けれども……。


「……そんなことあった?」


「ありました。二ヶ月前。しかもあなたはそのあと、書架の整理も手伝った。それから成瀬さんが桜庭くんに声をかける機会が増えたのよ。間違いないわ」


 間違いないらしい。

 遊薙さんの口調は自信と確信に満ちていた。


 しかし、百歩譲ってそれが正しいとしても。


「……なんで君がそんなこと知ってるわけ」


「だって、見てたもの」


「見てた? どうやって?」


「二ヶ月前って言えば、もう私が桜庭くんをストーカ……いえ、ちょっと追いかけてた時期よ。たまたま図書室でそのやりとりを見て、私がどれだけヤキモキしたか……」


「とりあえず、君が危ない人だってことはよくわかったよ」


「し、しょうがないじゃない! それくらいしかできなかったんだもの!」


「僕が言うのもなんだけれど、話しかければよかったのに」


「な、なんて話しかけていいか、わからなかったのよ……」


 だそうだ。

 遊薙さんも案外、気が小さいらしい。


「まあ成瀬さんの気持ちは、この際置いておくことにするよ。キリがないから」


 僕は少しだけ、本当にほんの少しだけ遊薙さんが愛しくなってしまって、彼女の隣の席に腰掛けた。


「でも、僕は成瀬さんに特別な感情はないし、仮に告白されたって付き合わないよ」


 なぜこんなことをわざわざ遊薙さんに話しているのか、僕は自分でもわからなかった。


「……本当?」


「うん。と言うか、僕はそもそも誰とも付き合わないつもりだったんだ。もちろん君ともね」


「……」


「……」


「……桜庭くん?」


「あー……だから、まあ、なに? ……あんまり、心配しなくていい……と、思う」


 けれど、彼女が悲しそうな顔をしているのが、僕は少なからずいやだったのだ。


 それは、彼女には似合わないから。

 たとえ恋愛感情がなくたって、遊薙さんほど素敵な人が悲しむのは、良くないことだと思うから。


「……桜庭くん」


「な……なに?」


「好きーーー!!」


「うるさっ! ちょっと! 声大きすぎ! 誰かに聞こえるだろ!」


「好き! 桜庭くん! ホントに大好き!」


 大声で騒ぎながら、遊薙さんがしなだれかかってくる。

 初めて彼女と身体が触れ合って、僕は心臓が飛び跳ねるのを感じた。


「もうバラす! みんなにバラす!」


「こら! ダメだって! それから、早く離れて!」


「やだー! 付き合ってるんだからいいでしょ!」


「付き合っててもダメ! 怒るよ!」


「怒られてもいいもん! 今だけはホントに我慢できないー!」


「やーめーろーーー!」


 やっぱりあの時、頑として断っておくべきだった。


 遊薙さんと付き合い始めて、まだ5日足らず。

 僕は早くも、そんなことを思ってしまっていた。

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