カレーなる夏

白川ちさと

本編


 今年も夏が熱い。


 青と白の縞模様のサンシェードを伸ばしながら、ノリカは汗を拭う。


 毎年夏は暑いと決まっているが、今年の夏は一段と暑い。これほどまでの熱気だとノリカが営んでいるキッチンカーに昼食を買い物に来る人も減る。


 八月の初めのこの日。ビル群の合間にある広場を借りて店を出しているのだが、昼休み時となったのにめっきり客足が減っていた。


 ノリカはビルを仰ぐような仕草で、黒いキャップをかぶり直す。


 その時、横から声がした。


「おばちゃん、カレーちょうだい」


 振り向くと高校生ぐらいの少年が立っていた。夏休みだからだろうか。髪の色を緑に染めている。しかし、少年の中性的な顔立ちには似合っていた。ノリカは口角を上げる。


「いらっしゃい。一つでいいの?」


「うん。おばちゃん、暑いのに大変だね」


 ノリカは45歳。おばちゃんという言葉に抵抗を感じる三十代はとっくに過ぎていた。


 ちょっと待っていてねといい置き、キッチンカーに後ろのドアから乗り込んで、注文のカレーを用意し始めた。


 三つ丼ぶりメニューを用意している中で、カレーはノリカの一番の得意な料理だ。前の晩に仕込んだトマト入りのドライカレー。一人分ずつに小分けにしているそれを火にかけたフライパンに広げて温め直す。四角い髪のボックスに大きな炊飯器からホカホカのご飯をよそって、温めたドライカレーを盛りつけた。


「あ。卵なしでお願い」


 窓の外から様子を見ていた少年が言う。外の看板には、写真が張り付けてある。カレーには、温泉卵が乗せられていた。もちろん渡す商品にも温泉卵を乗せる。


「駄目よ。卵は栄養たっぷりなんだから。しっかり食べなさい」


 ノリカは問答無用で卵を割って、カレーの上に落とした。


「はい。五百円ね」


「……おばちゃん、僕ぐらいの子供がいるの?」


 卵をのせたことが気に入らなかったのだろう。少しむすっとした少年は五百円玉を渡しながら言う。


「独身で子供もいないけれど」


「そう。じゃあね」


 ノリカは不思議に思いながらも、背中を向ける少年にありがとうねと声をかけた。





 変化があった、というよりも変化に気づいたのは、それから二週間ほど経ったお盆の帰省の時だった。七十代の年老いてきた母がそうめんをすすりながら言う。


「ノリカ。あなた、化粧品変えたの? いいのがあるなら教えてよ」


「え? 変えてないけど」


 ノリカはそうめんをすくっていた箸を止めた。


 化粧品を変えるどころか、まともに化粧品を買っていない。化粧水や乳液と美容液と揃えるわけでもなく、いつも簡単に終わる全て配合されているとうたう商品で済ませていた。


 それでも、母はまじまじとノリカの顔を見つめる。


「でもあなた、久しぶりに会ったら若がえった気がするわよ。髪もなんだか、こしがあるし。アンチエイジングの何か試しているんでしょ。こっそり教えなさいよ」


 言われてみると、以前は気にしていた小じわや白髪を気にすることが減った気がした。とはいえ、原因は分からない。


「本当に何もしていないんだって。なんでだろ?」


「さぁ、私に聞かれてもねぇ。でもせっかく若返ったなら、若い子でもひっかけたら? あなたったら、いつまで経っても男っ気ないんだから」


「ひっかけたらって……、っ、わさび入れ過ぎた」


 ノリカはツーンとする鼻を押さえて、この時の会話は終わった。


 一人暮らしの家に帰ってくると、ノリカは洗面台に向かう。顔をクレンジングで大雑把に洗い、自分の顔を改めて見た。


 たれ目で一重の目は、いかにもおかめさんといった風貌で、昔から和風な顔立ちだねと言われている。別に嫌いなわけではないが、地味な顔立ちだ。


「シミ、消えている」


 目元に少し出てきたシミがあったのに、跡形も無く消えていた。まるで、その手の美白効果をうたった商品広告のビフォーアフターのようだ。


「本当に若返っている……」


 身体にいいことなど何もしていない。日焼け止めクリームもろくに塗らずに仕事をしていたりしていたのに。


「まさかね」


 ノリカは台所に行き、次の日のための仕込みを始めた。



 

 五日経つとさらなる変化が起きた。


「あれ? いつものおばちゃんは?」


 よくキッチンカーを利用してくれる顔なじみのサラリーマンの青年に聞かれた。


「えと、本人なんだけど」


「またまた、冗談でしょ。君、どう見ても二十代じゃない」


 ノリカは二十代と言われたことに目を見開く。なぜか若返っているとは思っていたけれど、四十五の自分がそれほど若く見られるなんて。


「姪っ子か何かで手伝っているとか?」


「は、はぁ。そんな感じ」


 説明するのにも、どう説明したものか分からないので、ノリカは適当に頷いておいた。


「でしょ。夏休みだから手伝っているの? 学生さん?」


 ノリカはただ首を横に振る。


「じゃあさ。良かったら連絡先交換しない?」


「え!」


 よく買いに来てくれる青年だが、今までそんなことを言われたことがない。彼は二十代で、ノリカは四十代で当たり前かと思うが、それほど若く見えるということだ。


「えっと」


 しかし、連絡先を交換していいものかと迷う。青年はノリカを二十代の女性だと思っているが、実際の中身は四十代のおばさんだ。


「あ、お客さん来たから」


 ちょうどタイミングよく財布を持った女性が二人、青年の後ろに並んだ。


「さすがに初対面では教えてくれないか。じゃ、また今度」


 そう言って、青年はカレーの入ったボックスを持って去っていった。




 いよいよおかしくなったのは、それから一週間経った時だ。


「あれ? この前のお姉さんは?」


 サラリーマンの青年が来るなり、そう声をかけてきた。キッチンカーは一週間かけて、営業許可を取っている各地を回り一周してくる。青年とは一週間ぶりの再会だった。


「君は……この前の人の妹さん?」


「……。」


 ノリカは四十代に戻ったわけではない。さらに若くなり、誰が見ても十代の少女にしか見えなくなっていた。


 青年に会う前にも、若いのに暑い中大変だねとか、夏休みのバイト頑張ってねとか言われていた。


「うーん、しょうがないな。また会えるかも分からないし。これ、カッコいいお兄さんからって渡しておいて」


 青年は連絡先を書いた紙を渡して去っていった。


「……地味顔フェチなのかしら」


 青年には悪いが、彼が思っている彼女には二度と会えないだろう。ノリカはなぜか日ごとに若返っていく。今の顔は高校の卒業アルバムの写真そのままだった。


 つまり今は十八歳。


 後片付けをしながらノリカは考える。どうして日に日に若くなっていっているのだろうか。もはや、気のせいなどではない。四十五歳だった自分は見る影もなくなっている。今母に会えば、娘によく似ている別人と言われるだろう。


 片付けが終わると、キッチンカーを移動させる。軽くハンドルを操作し、運転も出来る。技能までが、十八歳のころに戻っているわけではない。


「あ! 運転免許証……」


 信号待ちでブレーキを踏みながら、ノリカはサッと顔を青くする。免許証とももちろん別人だ。ここで事故をすれば、本人だとは信じてもらえず、無免許運転になってしまうだろう。


「……明日からお休みだ」


 キッチンカーを運転できなければ、店を開くことは出来ない。





 翌日はせっかく出来たお休みだからと、外出することにした。


 しかし、若い身体に合うような服がない。十代の身体は痩せていて、デニムを履いてみてもゆるゆる。仕事ではベルトで留めてエプロンで隠していたが、出歩くのにそういうわけにはいかない。


 ノリカはタンスの奥の肥しを、無理やり引っ張りだした。二十代の頃に買った水色のワンピースだ。若い頃はあまり着なかったが、高かったので、捨てるに捨てられずにいる。


「これで、いいや」


 着替えて姿見で見ると、いいところのお嬢様に見えた。十代なのですっぴんでいいかと、そのまま家を出た。


 電車に乗ってスマホを見ながらやってきたのは、カレー屋だった。インド人がやっていて、本格ナンカレーが評判の店だ。混んでいて店の外には長い行列が出来ていた。


 ノリカはその最後尾に並ぶ。


「どこに行くかと思ったら、カレーを食べに来るとは思わなかったよ」


 後ろで声がする。並んだ人が話しているのかと思ったが、ノリカは肩を軽く叩かれた。


「ね、おばちゃん」


「おばちゃん……」


 後ろにいたのは、緑色の髪の少年だった。


「実は宿題だったんだ」


「な、何が?」


「夏休みの」


 ノリカの横に並ぶ少年。傍目からは高校生の二人に見えるだろう。


「2020年の旧人類の誰か一人を観察しろって言う宿題。いろいろあった年だから」


「朝顔の観察、みたいな?」


 突拍子のない言動に、ノリカの脳はついていけない。少年はただ、うんと頷く。


「ただ観察するのもつまらないから、みんな何か仕掛けを用意しているんだ。僕の場合はおばちゃんを一日に一歳ずつ若返らせたらどうなるか」


「ああ、だからだんだん若返っていたんだ」


 旧人類と言うからには、少年はきっと未来から来たのだろう。未来には何でも出てくるポケットがあって、そこには人を若返らせる道具も入っている。そんな白昼夢を見ているような妄想をするノリカ。


 少年の話は信じがたい。きっと長い夢を見ているのだろう。


「おばちゃん、ずっと冷静だったね。もっと慌てふためくかとおもったけど、お店もずっとしていたし。このまま若返り続けたら消えちゃうんじゃないかとか思わなかった?」


「ああ、その可能性もあったんだ。でも、君が現れたってことはもう終わりなの?」


「そうだよ。帰ってレポートを書かなきゃ」


 夏休みも残り三日ほどだ。


「それじゃ、最後に一緒にカレーを食べよう」


 ノリカたちは順番になると、二人向かい合って席につく。ノリカが頼んだのは十段階ある辛さの中の八。


「か、からぁ」


 味覚も若返っているせいか、いつもなら余裕なそのカレーが舌をピリピリ刺激する。


 次の日、ノリカは元の姿に戻っていた。前の日に用意していたカレーを売る。


 カレーなる夏が過ぎれば、食欲のカレーの秋が来る。ただ、それだけだ。

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