海豚の着物――肆

 目を開けて一番に見たのは空だ。大きな葉っぱの隙間から見える快晴の空。生暖かい風がザワザワと葉を揺らし、教室の隅からするような笑い声がかすかに聞こえる。

 それから墨で描いた落書きのような何かが空を飛ぶ。


「アメノ、大丈夫か?」

 ノウミの声がしたので体を起こすと、その向こうには尾人の四人が倒れている。

「大丈夫だよ。でも尾人と一緒じゃ、ちょっと困ったね」

「あぁ。こんな状況で魔法が使えないのは困るな」

 ここにはグネグネとあちらこちらに幹を伸ばす木々ばかり。その葉は開き過ぎて円になった扇のよう。

 地面はいつの間にか腐葉土になっていて一瞬、足を取られそうになる。

 木の根に一輪、かつて魔物たちが食用に育てていた石の花が咲いている。


「まるであの頃の森のようだね」

 呟くと同時に樹上からヤマトが降りて来て報告をする。砂の匂いがした。

「見渡す限り森だ。見える範囲には他に何もない」

「何処に飛ばされたのか見当もつかないね」

 僕の言葉に三人で頭を抱えていると、尾人の四人が起き出す。

 白い尾の狐彼女が腰をさすりながら唸っている横で目を覚ました茶色い尾の狐彼氏が、トタトタ、パタパタと慌てた様子で走り回る。


「ちょっと! アナタっていつもそうなのよ! 慌てるより先に私の心配をしたらどうなの⁉ こんな時くらい大事にしなさいよ!」

「そんな事を言ったってシラユキちゃん。情報を得なければ君を守る事も出来ないんだよ。僕はいつだってシラユキちゃんを守りたいだけなんだよ?」

「うるさいわよ!」


 狐彼氏の言葉なんて少しも受け入れずに怒鳴る狐彼女。

 その怒鳴り声で中年の猫男女が目を覚ます。

「いったい今度の天災は何なんだ?」

 虎柄の尾を揺らす猫男は伸びをしながら暢気に聞く。

 その隣でねっとりとした声を漏らしながら起き上がった長毛の猫女は、誰の事も見ずに尾の毛づくろいを始めた。


「どこかに飛ばされたようですが、全く場所の見当もつかないんですよ」

 僕が言うと、猫男はこちらをキッと睨む。

「なんだと! 今日中に帰れるんだろうな? 場所も分かっとらんのにお前らは何をしとるんだ。さっさと対応策を考えんか! おい! 店員はおらんのか!」

「はい。お客様」

 ヤマトが返事をすると、猫男はさらに激昂する。


「おるんじゃないか! どういうつもりだ! これは明らかな店の落ち度だぞ! なんで珈琲を飲みに来て遭難せにゃならんのだ!」

「いやぁ、虫の天災と言いますからね。こればっかりはどうにもなりませんよ。もちろん無事に戻れるよう誠心誠意、対応させて頂きますので」

 そう答えるヤマトの首筋で青磁色の蔦がニュルニュルと伸び、彼の首を緩く締め上げる。

「そ、それはなんだ⁉」

「すみませんねぇ。これは俺の病でして。うつる病ではないのでご安心ください」


 あれは勝手に伸びて来て首を締め上げるのだと聞いた。時には肩から左腕まで蔦を伸ばす事もあり、毟っても引き抜いてもすぐに伸びてくる。それは終わらない支配だと言って、初めて会ったヤマトは怠そうに笑っていた。

 今では気にしない精神力を身に着けたのだと言っていたが、こんな時にはそれも役に立たないのだろう。ひたすら蔦を引きちぎっている。

 さらに何か怒鳴ろうとする猫男の顔が、一瞬だけ本物の猫に見えた。

 毛づくろいをしていた猫女以外の五人がそれを見た。みんなの表情からして、僕の見間違いではないのだろう。


「ねこ……」

 シラユキが呟く。

「いかにも私は猫だが、それの何がご不満か!」

 猫男は吊り上がった目をさらに吊り上げ、耳をピクピクさせて怒り狂う。その顔が猫その物に変わっていった。

「ちょっとぉ、あんた止めなさいよ」

 猫女だ。その声を聞くなり猫男の顔が溶けるように人の顔に戻っていく。

「あぁ、そうだな。お前が言うのなら仕方がない」

「そうよぉ。こんなよく分からない所で喧嘩したっていい事ないんだからぁ」

 猫女は猫男の膝に乗り、体を擦り付ける。

 とんだお騒がせ連中と飛ばされたものだと思うと、一気に疲れが押し寄せる。


 ここは可笑しな森だ。

 かつて、一万と千年前のよく知る森と雰囲気は似ているのだけれど少し違う。

 かつての森はこんな風にとても深く、不可思議な形の葉や花が多くあった。

 けれどそこには墨で描いた落書きの鳥は飛んでいなかったし、その鳴き声が嘲笑のようである事もなかった。


「みなさん。こんな風になっては歩くよりありませんから、とにかく辺りの様子を調べに行きませんか? もしかしたら僕たちを飛ばした虫も一緒に来ているかもしれませんよ」

 僕の言葉に縋るように勢いよく立ち上がったのが狐男。

 座ったまま「飛ばす系の天災では、虫は付いてこんのを知らんのか」と馬鹿にするのが猫男。なんでもいいと言いたげな猫女。

 気が付くと、シラユキが僕をじっと見ている。そして聞く。


「何でそんなに落ち着いてるのよ?」

「申し遅れました。私たちは灯屋でして、灯りには虫が寄って来るものですからね」

「あぁ、灯屋って男の人だったのね」

「はい。どうぞご贔屓に」

「考えておくわ」

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