灯屋の虫籠

小林秀観

一匹目

夢の袖――壱

 儚い翅が焼け付くのも構わずに温かな火を、あるいは眩いばかりの希望を求める虫たち。その姿が人と重なる。


 水槽の水がピチャンと跳ねた。人ツムリが岩陰に隠れたのだろう。

 まるで泳ぐ蝸牛のようだけれど、殻から体を出すとその上半身は人間だ。この水槽にいるのは人の顔ほどの渦巻きの殻を持つ美しい女の人ツムリ。

 ナメクジのような体から骨盤を境に上半身が伸びている。初めは乳房もそのままだったのだが、ある日どこから持ってきたのか布を巻いていた。


 チリンチリンと店の扉が開き、杖を突いたお婆さんが入って来た。

 毛量の多い狼の尾も今ではシュンと垂れ下がり、時折りぴくっと動くばかり。あとから付いて来た青年がこちらに向かって丁寧に頭を下げて口を開く。


「すみません。火を使わない灯りを買いに来たのですが」

 お婆さんによく似た青年のふさふさした尾が、忙しなく振れる。

「えぇ、御座いますよ。当店は灯屋ですからね。石燈篭、和紙の行燈に提灯。色硝子に小さな灯り石をいくつか入れた物や、水槽に大きな灯り石を一つ沈めた物も御座いますよ」


 青年とお婆さんは「少し見てみます」と言って店内を回り始める。

 天井まで届く大きな作り物の木から明かりを放つ実が五つ垂れ下がる。二人はその木の前で立ち止まったけれど、商品の値札を見てお婆さんが嫌々と首を振る。

 青年が「これにしよう」と説得する声が静かな店内に響いている。

 お婆さんが困った顔で僕を振り向き、話しかけた。


「この歳になると火を熾すのが大変でねぇ。けど灯りが無いと夕餉に困るから探しに来たんだけどね。それだけだから小さくていいのよ」

「でしたら、それの木の半分の大きさの物が奥に一つありますよ」

 そう言うとすかさず青年が見せて下さいと言ったので、僕はカーテンの奥に入る。

 もちろん、そこには何もない。窓の向こうにあの木の半分の大きさの木が生えているだけだ。


 僕は窓を向いて両手を振り上げ、辺りに充満し過ぎて窒息しそうな魔力を掌に集める。

 外の木は緩々と根から消えていき、僕の目の前に姿を現す。

 根は角ばった支えとなり、幹は鉄となった。葉は上等な布になり、枝先で急速に実が三つ育つ。見る間に実は丸々と垂れ下がり、蜂蜜色の灯りを放った。


 僕は最後に枝の一つに小さな傷を付けると、それを担いで何食わぬ顔で店に戻る。

「お待たせしております。こちらなんですがね、枝の部分に傷がありまして。もしお買い求め頂けるのであれば幾らか引かせて頂きますよ」

「婆ちゃん。これにしよう」

「そうねぇ」

 お婆さんは気恥ずかしそうに、青年は満足そうに頭を下げる。

 僕が商品を包む間、お婆さんがぽつりと漏らす。


「どうして魔法は虫しか使えないのかしらねぇ。昔は人も使えたと聞くのに」

「虫が起こす魔法の天災には本当に困ったものですね。お二人もお気を付け下さい」

 僕はそう答えて尾人――おびと――の二人を送りだす。


 あのお婆さんの言う『人』とは尾人の事だが、尾人が魔法を使えた事は一度も無い。使えるのは人間だけだ。そして自分たちがその人間だと思っている。

 本当の話は違う。

 人間は人付き合いに絶望して精神を病んで絶えたのだ。

 ふと、蜻蛉が売り物の灯りの間を飛んでいるのを見た。さっきの二人が帰る時にでも入ったのだろう。その蜻蛉が水槽の方へ飛んでいくので、慌てて腰にぶら下げた虫籠を取って蓋を開ける。

 蜻蛉は吸い込まれるように虫籠の中に入った。


「みんなお前みたいに素直だといいんだけどね」

 再び腰にぶら下げる虫籠の中に羽音は響かない。蓋を閉めた時点で店の箱庭に送られるのだ。魔法を使わない限り箱庭からは逃げられない。


 人付き合いに疲れて精神を病んだ人間は虫になった。


 自分の魂にまで食い込む魔法をかけて虫の輪廻に飛び込んだのだ。

 一人が虫になると、みんな後を追って虫になった。他の何かになろうとは考えないのが人間らしい。そうして人間は一人も居なくなった。

 およそ一万と千年前の事だ。

 僕はそれらの事実を灯屋の『過去帳』を読んで知った。書いたのは先代までの灯屋の主人たち。僕は十七代目だ。


 水槽から人ツムリが忌々しそうに僕を見る。殻をひっくり返して上に向け、殻の淵に肘をついて睨み付けるのだ。その横には飾りの岩を削って作ったらしい食器がある。

「そう睨むなよ。仕方ないだろう? 仲間を食われちゃ困るんだよ」

 水槽の硝子は厚い。もう三度くらいこの人ツムリに壊されているのだ。その度に厚く作り変える。


 水槽に近づき蛸の足を落してやると、彼女は鼻をプイッとして後ろを向いた。

「よぅ、アメノ。随分と嫌われてんじゃねぇか」

 突然、店内にしゃがれた声が響いた。

「ミズハさん、お久しぶりですね。今回はどこまで行っていたんですか? 今年で七十歳でしたっけ? もういい歳なんですから適当にしておいて下さいよ」

 自分の背中と同じくらいの大きな巾着鞄を斜めに掛けたミズハさんが僕の鼻先まで詰め寄って怒鳴る。しまったと思った。この人は年寄り扱いされるのが嫌いなのだった。

「俺は六十九だ! 二十そこそこの若造がバカにすんな」

「二十七ですよ」

 ミズハさんは口の勢いのまま巾着鞄を会計机にドカッと置く。

 開いた鞄の口からたくさんの灯り石が転がり出て来た。蜂蜜色に朱色、茄子紺色に若竹色とその色は様々だ。

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