第2話

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」


 12月という春の訪れも感じられない厳しい寒さのこの季節。そんな時期のまだ日も昇らぬ薄暗い時間帯に毎日の日課の10kmのロードワークをこなす一人の長い濡れ羽色の髪を後ろでまとめた少年がいた。


「シュッシュッ、シュシュッ、シュッシュッ、フッハッ」


 ロードワークの途中に時折挟むリズムに乗り風を切る拳。170後半はある彼の右ジャブ左ストレートからのフックとアッパーの一切乱れの無いシャドウを見れば、素人でもボクサーだと分かるだろう。


「シュッシュッシュッ、シュッシュッシュッ!」


 さらに繰り返しジャブを放ち続ける。彼のスピードにのり、放てば放つほどキレを増すジャブを見れば、彼が優れたボクサーであることがわかるだろう。

 しかし、彼の顔はその軽やかなパンチとは対照的に酷く思い詰めた顔をしている。


(くそっ!もっと!もっとだ!もっと速く!!誰にも追いつけないくらい!)


 まるで自分にまとわりつく何かを振り払うように無我夢中で拳を振い続ける。

 一体どれほどの時間が経ったのだろう、気づけば日も昇っており街の喧騒が出てきた。


「ハァハァハァ、フゥ帰るか」


 あれほどの運動量をこなし、乱れていた呼吸をたったの一息で整えて家への帰り道を再び走り出す。






 日課を終えた少年は『椎名しいな』と書かれた表札のある一軒家へと帰ってきた。


「あ!道満どうまにぃおかえり!」


「あぁ、ただいま、由香里ゆかり


 少年を道満にぃと呼んだのは少し癖のある栗色の髪をボブカットで揃えた美少女である道満と同い年の妹の由香里だった。


「お母さぁん!お父さぁん!道満にぃが帰ってきたよ!」


「本当に?!やっと帰ってきたの?道満!!あんた早く学校の支度しなさい!遅刻するわよ!!」


「あぁ、わかってますよ」


 道満にマシンガンのように小言を言ったのは由香里と同じ栗色の髪を腰まで伸ばした美女である母の明日香あすかだった。


「よぉ道満。今日は帰るのが遅かったな。さては、いつもより追い込んでたな?今度一発打って見せてくれよ」


「よしてくださいよ、悠河さん。俺なんてまだまだですから」


「お前がまだまだなら他の奴らは玉たまだぞ?がはははは!!」


 ニヤリとしながら道満にしょうもない冗談を言ったのは他の二人と同じ栗色の髪を刈り上げた屈強な男である父の悠河ゆうがだった。


「もぉ、あなたったらそんなしょうもないことばかり言わないでちょうだい。

 それと道満?あなたもいつまで親を名前呼びするつもりなの?そろそろお互いに距離を縮めないと本当の家族になれないってお母さん思うの」


「そうだぞ道満、俺たちはもう家族なんだ。距離を作ろうとしないでくれ」


「…すいません、二人にはすごく感謝しています。親を亡くした俺を引き取ってもらって。でも、もう少し時間をください」


「ハァ、わかったわ」


 実は、椎名家と道満は血がつながっていない。親を亡くし、頼れる親戚のいなかった道満を当時仲の良かった椎名夫妻が引き取ってくれたのだ。道満はそれを負い目に感じ、椎名家に馴染めずにいる。


「もう!お母さん達ったら!時間をかけて少しずつでいいでしょ!ね?道満にぃ」


「あぁ、悪いな」


「そうね、わかったわ。

 さ!二人はもう学校に行く時間でしょ?早くいってらっしゃい!

 あ!それから今日は明日からの修学旅行の準備があるから早く帰ってきなさいよ」


「はーい!」


 由香里の助けのおかげで沈んでいた家の空気はまた柔らかくなる。


「それじゃあ、いってきます!!」


「いってきます」


「「いってらっしゃい!!」」


 道満は由香里に引っ張られて家を出る。それを明日香と悠河は微笑ましそうに見送る。


「あの子なら道満の凍った心を溶かしてくれるかもしれないわね」


「あぁ、そうだな。俺たちは見守っていよう」







「ねぇねぇ、道満にぃー。修学旅行楽しみだねぇ。東京だよ?!都会に行ってみたかったんだよねぇ」


「あぁ、そうだな」


「今日は早く家に帰って準備しなきゃね!一緒に帰ろうね?」


「悪い由香里。今日は先に帰ってくれ」


「…またボクシング?

ねぇ、そんなにボクシングやる必要あるのかな…。だって、ボクシングが道満にぃの学校生活を台無しにしたんだよ?!?!それにさ、ボクシングしてるときの

道満にぃさ、全然楽しくなさそうだよ?」


「……」


「もう知らない!!!!!!」


 そう言って由香里は一人で学校へ向かってしまった。


(ハァ、楽しくなさそうね…。その通りだな。でも、止めるわけにはいかねぇんだよな。ボクシングだけが俺に残った唯一のものなんだ。それを止めちまったら俺は何者でもなくなっちまう。それだけは嫌だ。)


 そこで道満はふと周りの登校している学生に目を向けてみる。


『サッ』


 全員が道満から目を逸らし、気まずそうに目線を泳がせている。


(嫌われたもんだなぁ、これがボクシングのせいかぁ…。

まぁ間違っちゃいねぇなぁ。俺がなまじ力を持っていたせいであんなことになったんだからな。)


 そう思いつつ道満は憂鬱な気分で学校へと向かう。










 


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