第3話
医師が喫茶店のドアを開けたのは小雨の降る夕方だった。
「いらっしゃいませー、お好きな席にどうぞー」
カウンターに座っている女性から声がかけられた。
エプロンをしているから、この喫茶店のウェイトレスなのだろう。
医師は間にひとつ席を空け、カウンターに座った。
「コーヒーをもらえますか、おすすめのブレンドで」
ウェイトレスに注文すると、彼女は厨房の奥に向かって注文を繰り返した。
「はーい」と声がして厨房から女性が出てきた。
喫茶店のマスターである祐子だ。
医師を見るなりスポーツタオルを手渡して聞いてきた。
「雨宿りが必要なくらい降ってきちゃいました?」
「いえ、それほどは降ってないです」
「あら、そうなの?」
雨宿りに入ってきたと思っていた祐子はちょっと驚いてしまった。
「ブレンドですよね、味のお好みはありますか?」
そう聞かれ、今度は医師が驚く。
コーヒーはよく飲む。だが、味の好みなど考えたことはなかった。
自分はどんなコーヒーが好きなのだろうか?
「自分の好みを考えたことがなかったので、どんな味が好きかわからないです」
素直な答えに嬉しくなった祐子はさらに突っ込んで聞くことにした。
「じゃ、今まで飲んだコーヒーで思い出せる味ってありますか?」
思い出せる味、それならある。
昨年手術をした患者が昨日外来で来て、8歳の子供らしい説明抜きではわかりにくい絵をもらい、その絵を見ながらデスクで飲んだコーヒーだ。
「心が暖まる味でした」
ウェイトレスの怪訝な顔を見て間違えたと思い、言い直そうした医師の声は祐子の返事で遮られた。
「わかりました。ほっとできる暖かい味のコーヒー、お入れしますね」
「そんな注文の仕方ありなの?」
驚いて聞くウェイトレスに祐子が得意げに答える。
「これでも、バリスタですから」
「なら私も!私にも暖かい味のコーヒー入れてー!」
「この次ね。いい加減戻らないと怒られちゃうよ」
「やべっ!1時間近くたってる。また来るね!」
祐子が指さした壁掛け時計を見てウェイトレスが慌てて店を飛び出して行った。
「にぎやかな子でごめんなさいね」
カウンターに水を置きながら祐子が謝る。
「いらっしゃいませ、って言われたからてっきりここのウェイトレスかと思ってました」
「違うんですよ、近くのケーキ屋さんの子なの。ここのケーキおいしいから、もし甘いものお好きでしたらおすすめですよ」
「是非ください、甘いもの大好きなんで」
ちょっと照れたように言う男性に、すでに祐子はきゅんとしていた。
この間の爽やか君以来、新顔は来ていなかった。
といっても驚くことはなく、基本常連で成り立っている喫茶店ですから、さわやかくんが特別だったのだ。
久々の新顔っは、どうみても祐子より年上。
50歳まではいっていないと思うけれども、確実に40歳以上だろう
指輪はないが既婚者の可能性が高い。
そんな相手にきゅんとしたってしょうがない、とわかっていてもしてしまうのが乙女心。
ここはひとつ、バリスタの腕前を秘湯して常連になってもらおうじゃないか!
そんなことを考えつつ、祐子はコーヒーを入れていた。
コーヒーの味など考えたことのなかった医師だが、マスターが入れてくれたコーヒーは暖かい味がしたと思った。
コーヒーなのになんとなくフルーティーで後味がいい。
そしてケーキ。
甘いのだがしつこくなく、さっぱりと味わえる。
このケーキならホールでも食べられる気がする。
気がつくと、あっという間にコーヒーもケーキも食べ終わっていた。
「すごく美味しかったです。コーヒーも暖かい味でした」
「お口にあって良かったです」
「このお店はいつからあるんですか?」
「開店してそろそろ10年ですかね。なんとか続いてます」
一瞬真剣な表情になった男性を見て、もしかして地上げかなんかかと祐子は怪しんだ。
そして、男性の次の言葉に恋心は冷めていった。
「ある女性を探しているんです」
間の抜けた表情になった祐子に対し、男性は探している女性の特徴を語り出した。
背が高くて細身で黒髪のショートボブ。目力が強く、化粧はしていない感じなんだけど端正な顔立ちではっきりしている。
声は女性にしては低め。
方言はなく標準語で喋る。
「本牧の喫茶店で見たという人がいて、探しているんです」
医師はこの2週間、時間を見つけては本牧まで来て占いをしている喫茶店を探していた。
看板が出ていると聞いていたのにどこにも占いの看板を出している喫茶店はなく、”今風じゃない”というとてもわかりにくい説明を頼りにそれっぽい喫茶店を見つけては入っていたのだった。
「うちの常連さんにはいないですね。お役に立てなくてごめんなさい」
祐子が答えると男性の表情からみるみる力が抜けていく。
「そうですか・・・」
「喫茶店のお名前はわからないんですか?」
「はい、占いの看板のある喫茶店ということしかわからなくて」
春香の占いが当たると評判になってからここいらの喫茶店でも占いをするところが増えてきているらしいから、きっとその中のどれかなのだろう。
祐子はそう思ったが、常連さんやご近所さんから聞いただけで自分で近くの喫茶店を調査したことがないので、どこのお店なのかはわからない。
「そういう女性が来たら気にかけておきますね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
急に立ち上がりお辞儀をした男性は、名刺を取り出して自分の電話番号を書いて祐子に渡した。
「小野寺、と申します」
祐子はまず”外科医”と書かれているのに驚いた。
それから名前の横の病院名を読み、”外科部長”という肩書きにも驚いた。
やだ、なんかすごい人じゃない!
でも女性を探しているのよね。間違えちゃいけない、いけない。
探している女性が来ることがあったら連絡すると約束し、祐子は名刺を引き出しにしまった。
爽やか君が飛び出して行ってから1ヶ月経とうという頃、喫茶店に春香が遊びに来ていた。
ほぼ1ヶ月の間連絡が無かったのに祐子はまるで昨日も会っていたかのように春香に話しかけていた。
「久しぶり-!どうしてたの?風邪?ダメだよ~、気をつけなくちゃ。お互いもう若くないんだから風邪も長引くよ」
春香が何か答える前に風邪だったことに決まったらしい。
「あとで漢方薬分けたげるね。こないだ鼻風邪になっちゃってさ、そのときにもらった漢方薬が効いたのよー」
それも鼻風邪らしい。
「とりあえずコーヒーよね。食事はどうする?今日まだケーキ残ってるけど?」
食事をどうするか聞いたのにケーキを出すつもりの祐子の、こういうところが春香は気に入っている。
いつ会っても昨日も会っていたかのように話しかけてくれるし、こっちがしゃべらないなら聞かずに自分の手持ちの話題を並べてくれる。
聞きたいことがあるのは知っているし、私も話すつもりで来ているのに。
「ケーキとコーヒーね。それから少し時間ちょうだい。あの男性のこと話しておきたいから」
爽やか君のこと?と聞き返す祐子にちょっと申し訳ない気になりながら春香が続ける。
「爽やか君改め、どろどろ君」
なにそれ、と怪訝な顔をしながら祐子が出してきたケーキはモンブラン。に見えるけどケーキのトップに乗っているのはラズベリーだ。
栗とラズベリーって合うのかしら?
そんなことを思いながら口にして春香は驚いた。
「これ、コーヒーの味がする!」
「そうなのよ、これ、私がアイデアを出したケーキなの」
作ったわけではないのにものすごく得意げに祐子が説明する。
「コーヒーってコーヒーゼリーとかばっかりだからさ、一見コーヒー味じゃなさそうなのに食べたらコーヒー味のケーキがあったら面白いのに、って言ったのよ」
「それでモンブラン風のコーヒー味ケーキ?」
「うん、おいしいでしょ?」
「すっごく美味しい。あそこのケーキ屋さんってすごいね!」
「私のアイデアからこんな美味しいケーキ作っちゃうんだから、あそのこのパティシエは天才かもしれないね」
「近所で良かったねー」
「ほんと、ほんと!」
笑い合う二人は1ヶ月も連絡を絶っていたとは思えないいつもの二人になっていた。
春香は爽やか君改めどろどろ君について、話せる範囲で祐子に話し始めた。
どろどろ君はお父さんについて悩みを持っていたこと。
そのお父さんが入院していることを知り、病床にいるお父さんについて相談をされたこと。
けれども、自分が視る前にお父さんが亡くなってしまったこと。
「力になれなかったのか…。それは辛かったね。風邪じゃなくても寝込むわよ」
ここに来れなかったのは寝込んでいたからではないのだが、祐子はいつものとおり自分に都合よく解釈していた。
春香が来れずにいた理由、それは八重の力をしっかり抑えるために修行していたからである。
八重がどろどろ君の父親の命を奪ったことを知ったとき、春香は自分の力不足を恥じていた。
使い魔が許可なく命を奪うなどありえない。
これはきっと、自分の力が足りないからだ。
そう思い、春香は岩手に住む祖母を訪れ修行をしていた。
祖母を訪ねるのは使い魔を手に入れた時以来なので、25年ぶりだった。
中学に上がる前に家族で祖母を訪れて以来だ。
あのときは自分に使い魔が持てるようになるなんて思っていなかった。
春香の家系には代々霊感の強い者が出ており、祖母もその一人だった。
祖母のもとにはご近所の方から威張り腐って秘書を連れ歩くような人まで、いろいろな人が相談に来ていた。
時々祖母が和紙を折り、飛ばしているのを見て不思議に思って聞いたことがあった。
祖母は微笑みながら教えてくれたのが”使い魔”だった。
あの世に行く前にお手伝いをしてくれる霊たちなのだそうだ。
使い魔のおかげで自分が行けない遠くを見てもらうことができるし、怪しいモノをいち早く知ることもできるらしい。
そして、使い魔を従えることができるのはごく少数で、祖母の兄弟では祖母だけ、父の兄弟では誰もいないと言っていた。
それなのに、なぜか私は八重を使い魔として従えることになった。
偶然に出会い、友達になったつもりだったのに、使い魔としての契約をしてしまったのだ。
八重の力は強く、観察するだけでなく、人の生死を操作できる。
最初は従えることができず、一人だけ春休みを過ぎても祖母の元に残って修行することになった。
祖母は驚きながらも春香の力を喜んでもいるようだった。
祖母の教えに習い、ずっと八重を従えているのだが、今まで春香の許可なく人の命を操ることはなかった。
今も八重を従えていることに祖母は驚きながらも、八重の力が強まっていると教えてくれた。
従っているふりをしながらちょこちょこ自分の欲望を満たしていたのだろう、と。
そうして高めた力は春香の許可無くとも使えるようになっているのだろう、と。
祖母の指導のおかげで、今八重は私の許可なく力を振るうことはできなくなっている。
それが不満なのだろう。
呼び出すたびに不機嫌な態度を見せつけてくる。
祖母には手放して、新たな使い魔を探すことを提案された。
その方が安全だろうから、と。
そうなのかもしれない。
でも、自分の能力に戸惑い、恐れていた子供時代に手をさしのべてくれた八重を忘れることができない。
春香にとって、初めて友達になってくれたのが八重だ。
恐ろしい力を持ってもいるけど、寂しかったひとりぼっちの子供に話しかけてくれた優しさも持っている。
八重を手放すことができず、悩みながらも祖母の元で修行をしていたことなど知らず、祐子が漢方薬を持ってきた。
「まあだまされたと思って飲んでよ、私には効いたんだからきっと効くよ」
疑うことなく話されたことを受け止め、自分勝手に解釈して話を進める祐子に春香は思わず笑みを漏らす。
祐子はいつだってこうだ。
しつこく聞かれてもおかしくないのに、詮索はしてこない。
でもそれは、春香に関心が無いからではない。
学生時代、一度祐子に相談したことがあった。
見過ごすことのできないモノを連れている同級生がいて、まわりに影響が出始めたときに除霊したことがあるのだが、そのときに誰かに見られていたようでしばらく校内で噂になってしまったのだ。
聞こえるように露骨に言われることもあったのに、祐子はそれまでと変わらずに接してくれていた。
それどころか、噂話をしていた同級生に「その場面を見たのか」と詰め寄ったことすらある。
そんな祐子に自分の力について話し、学校に来るのが辛いと相談したのだった。
祐子はどんな力を持っていても春香は春香、親友だと言い切った。
もし学校に来なくなったら寂しいけど、そのときは家に遊びに行ってもいいかと聞いてきた。
そして、おそるおそる春香の力について質問してきた。
言いたくなければ一切言わなくていいからと何度も前置きしながら、知ることで春香の手助けができることがあるならば教えて欲しい、と。
春香は自分の家系について、霊障を見ることができる能力について話した。
祐子には初めて聞く話ばかりだったと思う。。
でも、話し終えたとき、祐子は祐子らし解釈をして言い切った。
「遺伝ってことはいいことだよ。両親やおじいちゃん、おばあちゃんからもらった自分の要素だもの。私の猫っ毛が父親ゆずりなのと一緒よ。個性ってことよ」
今考えても霊視や除霊が猫っ毛とどう同じなのかはわからない。
だけど、怖がったり興味本位でいろいろ聞いてきたりはせず”個性”と言い切ってもらえたのが嬉しかった。
「相談したいことがあったらこれからも何でも言って。負担には感じないで。言いたくなったときに言いたいことだけ言ってくれていいから。私も思うことはちゃんと言うから」
そう言ってくれた祐子の笑顔は今も変わらない。
学生時代には祐子の思いやりだと思ったが、今は思いやりだけでなく祐子が本質的に受け身であり、柔軟な心を持っているからこその発想でいい方向に情報を解釈しているのだとわかる。
一ヶ月も寝込む風邪がどんな風邪なのかはわからないが。
「わかった、試してみる」
漢方薬を受け取りながら春香が言った。
そしてしばし、祐子から漢方薬の飲み方について説明を受けた。
「そう言えばさ、ここらでショートボブのモデルみたいな女性って見たことある?」
店内では見なくても、ここに来るまでの間で見かけたことがあるかもしれないと思い、玲子は先日小野寺医師から聞いた探している女性について話し始めた。
「背が高くて細身でショートボブで目力が強くて声が低めの女性?」
春香も祐子と同じく八重を思い浮かべたようで、「女性なんだよね?」と聞き返してきた。
「うん、女性。話してた感じからすると、訳ありで別れた彼女を探してるって感じ」
「訳ありってどんな訳よ?」
「うーん…。なんと言っても外科部長だからね。医療ドラマにあるような権力争いで院長の娘と縁談が、とかあったんじゃないかな」
「それで泣く泣く別れたのに探してるの?」
「院長の娘のわがままで縁談が流れたのかもしれないね」
「わがままなんだ?」
「そりゃわがままでしょー。なんたって院長の娘だもん」
病院長の娘に知り合いなどいないはずだから、100%なにかのドラマの影響だろう。
「真実の愛に気づいて別れた彼女を探しているのよ、きっと」
手を合わせ何も無い空間を見つめる祐子を見て、いったいどんなドラマを見たのだろうかと思う。
「だからね、どこかで見たことない?」
「ない」
「そうかー、そう簡単には見つからないかー」
「あんたが探してどうすんの?」
「決まってるじゃない!ここで再会してもらって、感動の瞬間を目撃するのよ!」
こぶしを握り、鼻息荒く言う祐子を見てたら、見つからない方が小野寺医師のためなんじゃないかとちょっと思ってしまった春香であった。
翌日、開店早々春香が訪れ、久しぶりに占いをすることになった。
看板に書いたものの、ここのところ占いはお休みだったからか占い客は来ず、コーヒーを飲みながらお喋りして午前中を過ごした。
お昼を食べても占い客は来なさそうなので今日は占いを終わりにしようかと思い、看板を消しに行ったところで一人の学生に声をかけられた。
「占いはもう終わりですか?」
制服から判断するに中学生。
なぜ中学生が平日昼間にここにいるのだろう、と思ったものの彼の追い詰められたような表情を見て、祐子は学生さんを店に入れた。
「占いご希望のお客様です」
いつだって祐子より春香の方がするどい。
今回もそうだ。
学生さんを見るなり春香は何も聞かずに占いスペースに彼を誘導した。
春香の向かいに座った学生さんは緊張というか切羽詰まった表情をしていた。
そして、緊張した声で話し出した。
名前は宮本涼太。近くの中学に通う中学2年生。
妹を助ける方法を占って欲しい。
彼の妹、宮本玲奈は9歳。小学校4年生だ。
涼太とは血がつながっておらず、涼太は父の連れ子、玲奈は義母の連れ子だ。
涼太の母親は涼太が10歳のときに病で亡くなった。
その3年後に父が再婚して玲奈が妹になった。
新しい家族との暮らしは涼太にとって緊張と戸惑いの連続だった。
それまで父と2人きりだったこともあってパンツ一丁でいることもあった風呂上がりには「妹がいるんだぞ」と怒られることもたびたびあった。
朝の洗面所で妹と一緒になると、涼太は距離をあけようとするのだが、洗面所が狭いこともあって玲奈はすぐ横にくっついてくる。
同じ方向なので通学は途中まで一緒なのだが、玲奈が手をつないできたことには驚いた。
涼太が手を離すとそれを見ていた父が「新しい場所で心細いんだから手ぐらい繋いでやれ」と叱る。
転校したことのない涼太は心細いものなのかわからず、父に言われるままに手を繋いで登校するようになった。
でも、何ヶ月も心細いとは思えず、数ヶ月後に涼太は手を繋ぐのをやめた。
すると、玲奈は涼太の部屋に来るようになった。
勉強がわからないから教えて欲しいと言われたらダメとも言えず、でも距離の近さが気になってしまう。
何度か部屋で勉強を教えたあと、涼太はリビングで勉強をするようにした。
リビングならば親もいるしテーブルも広いので、玲奈が近づきすぎているときには冗談めかしながら距離をあけることができると思ったのだ。
狙いは的中。
何度かくっついてこようとする玲奈とやりとりをしていると母が玲奈に注意してくれた。
「玲奈、いくらお兄ちゃんができたのが嬉しいからって、そんなにベタベタしちゃダメよ」
「ダメじゃないもん」
「お兄ちゃんの勉強の邪魔になってるでしょ?」
「なってないもん」
「なってるわよ。玲奈が教えてってくっつくたびにお兄ちゃんは自分の勉強を止めなきゃいけないのよ。少しは自分で勉強しなさい」
「してるもん」
「じゃ、まずはテーブルの反対側に移動しなさい」
「やだ。ここがいい」
「そう。じゃあ涼太君、悪いけどこっちに移動してくれる?」
言われてびっくりしたものの、涼太は素直に移動する。
「だめ!お兄ちゃんは私の隣!」
涼太の腕をつかんだ玲奈を母が叱る。
「離しなさい、玲奈。自分で勉強してるんでしょ?」
そういって軽く玲奈の手をはたいた。
決して強く叩いたわけではないのに玲奈は大声で「痛い!」と叫んだ。
その悲鳴のような声に驚いて玲奈の手を見たが赤くなったりはしておらず、どこをはたかれたのかもわからなかった。
そんなにわめかなくても、と玲奈の顔を見た涼太は驚いた。
玲奈は母をものすごく冷たい目でにらんでいたのだった。
その目は涼太が今まで見たことの無い、殺意のこもった目だった。
母に注意されたあと、玲奈が勉強を教えて欲しいと言ってくることはなくなった。
その後しばらくは何も問題は起きなかった。
だがある日、涼太が寝ようとしていたら玲奈が部屋を覗いてきた。
相談があると言われたが、もう遅いから明日にしてくれと部屋の外に出そうとしたのだけれども、部屋の中に入られてしまった。
怒るのもおかしい気がしたので、自分はトイレに行くから部屋から出て行くように言った。
トイレのあと、思いつきから台所に水を飲みに行った。
寝る前に水分をとるのはいけないかもしれないとも思ったが、なんとなく時間をつぶしてから部屋に帰りたかったのだ。
母が、眠れないならホットミルクでも作ろうかと聞いてきたので飲むことにして、しばらくリビングにいた。
そこに玲奈がやってきた。
涼太がなかなか戻らないので様子を見に来たと思われるが、リビングで母とくつろいでいる涼太を見るなり目つきが変わった。
いつかの冷たい視線で叫ぶように言った。
「なんでお母さんがお兄ちゃんといるのよ!」
言われた涼太も母もなぜ玲奈が怒っているのかわからず、どうしたのか聞いた。
「もう遅いからって言ったのに、なんでお母さんと喋ってるのよ!」
ホットミルクのことを説明しようにも玲奈は聞く耳を一切持たずにわめき散らす。
「玲奈よりお母さんがいいの?」
「玲奈が子供だからダメなの?」
「なんで玲奈じゃないの?」
涼太は玲奈の言っていることがわからず困っていると隣にいた母が立ち上がった。
母の顔を見ると血の気がなく、何かを恐れているような表情で玲奈の名前を呼んだ。
そして、そのまま玲奈の手をとって、玲奈の部屋に行ってしまった。
残された涼太はわけがわからず、ただただ冷めていくホットミルクのカップを持っているだけだった。
翌朝、玲奈は病院に行くことになり、涼太は一人で学校に向かった。
帰ってくるといつもはまだ帰っていない父がいて、涼太を公園に連れ出した。
そして、玲奈は心の病気だと聞かされた。
玲奈の前の父親には問題があり、玲奈は母親と家族を奪い合わないといけないと思い込んでしまっている。
そのため、父や涼太は母を仲良くしていると癇癪を起こすのだそうだ。
そんな病気、聞いたことが無い。
素直にそう言うと父も今まで知らなかった病気だと言った。
「母親が母親だってことを忘れちゃうみたいなんだ」
母親を忘れるなんて涼太には想像できなかった。
新しい母さんがいる今だって、亡くなった母さんを忘れたことなんてない。
「僕はどうしたらいいの?」
「癇癪を起こしても忘れてやって欲しい。父さんも忘れるようにするから」
昨日の玲奈を忘れるのは難しいだろう。でも、忘れたふりならできるはずだ。
涼太はわかった、と返事をした。
その日から玲奈は何かの薬を飲むようになり、涼太にしつこくすることは減った。
癇癪を起こすこともなく、母とも和やかだった。
そんな穏やかな日が1年以上続いた。
たぶんきっと、みんな玲奈の病気のことを忘れていたんだと思う。
でも玲奈はいつからか薬を飲むのをやめていた。
そして、先週事件が起こった。
涼太がベッドに入ったあと、誰かがドアを開けた気配がした。
すでに寝かかっていたこともあり、涼太は気にせず眠ることにした。
だが、突然布団野中に冷気が入り込む。
そしてパジャマと下着を下げ、誰かが涼太のアレをにぎった。
突然のことに涼太が大声を上げて飛び起きるとベッドの横には玲奈がいた。
涼太の声に驚いて父と母がやってくる。
ベッドのはじっこで布団を抱きしめている涼太とベッドの横に座っている玲奈を見て、何をしているのか聞いた。
何が起きたのかよくわかっていない涼太がどもりながら言った。
「お、おちんちんが、おちんちんが…」
父が顔をしかめたとき、玲奈が言った。
「だって、前の父さんは好きだったよ。玲奈がおちんちん撫でたり舐めたりすると褒めてくれたもん」
全員が驚く中、母が玲奈の名前を叫び頬を叩いた。
「なんてことするの!」
顔を真っ赤にしながら母は玲奈を引っ張り立たせ、そのまま玲奈の部屋に行った。
玲奈の言ったことが理解できずにいる涼太の横に父が腰掛ける。
「大丈夫か、涼太?」
「わ、わからない」
涼太はどもったままだ。
それほどに玲奈の行動は衝撃的だった。
「玲奈は病気なんだ。忘れるのは難しいかもしれないが、できれば忘れてくれ」
「いったい何の病気なんだよ!」
つい涼太は声を荒げてしまう。。
「それにどういうことなんだよ。前の父さんは褒めてたって、なんなんだよ!」
父は覚悟を決めたかのようにため息をひとつつき、涼太に説明した。
玲奈が前の父親に性的虐待を受けていたこと。
それが原因で母さんは離婚し、前の父親は刑務所にいること。
玲奈は虐待されていたことが理解しきれないようで、愛情を得るためには性的な行動をとる病気だということ。
難しい話を衝撃から抜けきらない状態で聞かされ、涼太は混乱した。
「そんな病気聞いたことないよ。。」
父に肩を抱かれ名前を呼ばれてもその声がよく聞こえず、「僕にどうしろって言うんだよ」とつぶやいたときには泣いていた。
「すまない」
父は一言そうつぶやくと腰を上げた。
そして、涼太の部屋の入り口でよりかかるように立っていた母とともに部屋を出て行った。
あれから玲奈は毎晩母親の前で薬を飲まされるようになったが、いつまた飲まなくなるかわからない。
涼太は寝る前にドアの前に大量の漫画本を置いてドアをふさぐようになった(鍵を付けたいと言ったが父さんに許してもらえなかった)。
玲奈といるとき、また襲われたらどうしようかとすごく緊張するようになった。
母も緊張しているのが見ていてわかる。
今までの穏やかな目ではなく、監視する目で玲奈を見ている。
寝るときも、父と一緒の部屋ではなく玲奈の部屋で寝るようになった。
父は無口になった。
このままじゃ僕の家族は壊れそうだ。
でも、友達に相談できるようなことじゃない。
それでここに占いに来たのだった。
「妹の病気を治してあげたいんです。そうすれば、きっと僕らは問題なく暮らせるはずだから」
誰にも言えず辛かったのだろう。
涼太は息つく間も惜しいかのように一気に話した。
でもこれは春香がどうにかできる問題ではなさそうだ。
そう思った春香に八重が耳打ちする。
「その妹を消せばいいんじゃないの?」
目をつぶり、八重に去れと命じる。
そしてゆっくり目を開けると涼太に言った。
「薬を飲んでいれば問題はないのね?」
「はい、そうだと思います」
「わかりました」
春香はかばんから1枚の和紙を出すとその上に手を置き、再び目をつぶった。
声に出さずに何かを言い、手を離すと和紙は消えていた。
玲奈が薬を飲み忘れないように見張り、促す使い魔を送ったのだ。
何を言っているのだろうかと春香を見ているうちに和紙が消えたことに驚いている涼太に言う。
「もう薬を飲み忘れることはないから大丈夫」
何がどう大丈夫なのかわからず戸惑う涼太に、祐子が竹笛のストラップを渡した。
「これを妹さんの持ち物につけてあげて。それでもう大丈夫だから」
涼太にそう言うと春香の方を見てウインクをした。
”相手は中学生なんだから、わかるようにしてあげないとダメだよ”そう言っているようだった。
「持ち物につけるのが難しそうだったら、妹さんの机の引き出しにでも入れてあげて」
フォローして、まるで最初からストラップを渡すつもりだったかのように装う。
涼太は嬉しそうにお礼を言ったかと思うと、恥ずかしげに占いの代金について聞いてきた。
「あんまりお金は持っていないんで、足りなかったら来月のお小遣いもらってから払いますから」
頭を下げ、上目遣いでそう言う涼太にお金など請求できるはずもなく。
「代金はけっこうです。その代わり、1ヶ月後にどういう状況かを教えに来てもらえませんか?」
涼太はこの1週間で一番の笑顔でお礼を言い、喫茶店を出て行った。
「さっきのアレ、前に私にもくれたやつでしょ?」
思い出しているのか嬉しそうに祐子が春香に話しかけた。
「あなたにあげたのとは違うけど、うん、そう」
「アレってどう見ても手品だよねー」
「手品?」
「だって、紙が消えちゃうんだもん。手品じゃなくても”見破れない手品”でいけるよ」
「手品じゃないのに手品っておかしいでしょうが」
「いいの、いいの。信じたもん勝ちなんだから」
なぜか得意げに言う祐子に絶妙なフォローを感謝しつつ、ちょっと気になったので聞いてみた。
「さっきの子の話、聞こえてた?」
「ううん。生クリーム取りに来たら手品が見えたから、懐かしいなぁってちょっと見ちゃっただけ」
聞こえていたら聞こえたといつも言ってくるから、本当に聞こえてはいなかったのだろう。
「ごめんね、とっさとはいえ、あんな中古のストラップ渡しちゃって」
「確かにお古だったよね、ストラップ曲がってたし。でも、ありがとう」
少し笑いながら春香が答えた。
春香の目が笑っていないのに気がついた祐子が質問した。
「難しい話だったの?」
「そうだね…」
「まだ中学生なのに大変だね」
そう言って祐子は話しを切り上げた。
厨房に戻る祐子を見ながら春香も思い出していた。
話せば聞いてくれるけれども、自分からは占いの内容を知りたがらないところは祐子の付き合いやすいところだ。
祐子にとっては、占いの内容よりも手品じゃない手品の方が興味の対象なのだろう。
そんな祐子に使い魔を作ったのは大学受験のときだった。
どんなに頑張っても寝てしまって勉強ができないと言う祐子に眠りそうになったら騒ぐ使い魔を作ったのだ。
ただし、使い魔が持ったのは2日間だけだった。
騒いでも起きてくれなくなった、と使い魔が戻ってきてしまったのだ。
使い魔が戻ってくるなんて初めてだったのでまだまだ修行が足りないとあのときは思ったが、今作っても同じことになる気がする。
祐子はどんな状況も受け入れてしまうから、受け入れるのにかかる日数分しか役立たないだろう。
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