第128話
風に、夏の終わりの匂いが混じる。
秋を孕んだ空気の朝、いつも通り、ルーヴァベルトは鍛錬に勤しんでいた。
じわりと汗ばむ肌に、少しだけ風を冷たく感じる。季節の変わり目は、言葉にならない僅かな淋しさを感じるのは何故かと、いつも不思議だった。
―――きっと、季節が一つ、死んでいく気がするからだろう。
近づいてくる気配に気づかないふりをして、呼吸を整えた。自信に溢れた足音は、視線を向けずとも誰かわかる。
「相変わらず、朝が早いな」
低く甘い声が澄んだ空気に響いた。
返事はしなかった。相手も気にする様子もなく、風が気持ちよいなどと独りごちている。
寝癖のままなのか、いつもとは違う方向に跳ねた赤髪を揺らし、ランティスは手近な木へ寄りかかった。ちらともこちらを見ようともしない婚約者殿は、いつも通り不機嫌そうな無表情である。
暫く、そうしてルーヴァベルトを見つめていた。後ろで一つに結った黒髪が、動きに合わせて揺れている。まるで馬の尾に似て見えた。
傍から見れば綺麗に無視されていたのだけれど、ランティスにとって居心地の悪いものではなかった。婚約者殿のそっけなさはいつものことであるし、顔を合わせる前に逃げ出されなかっただけマシだとすら思う。露骨に嫌な顔をされなかったのも、大した進歩だろう。
そんな男の内心など露知らず、不意にルーヴァベルトが息を吐いた。だらりと全身から力を抜くと、緩慢な動作で振り返る。その顔は、眉間に皺が寄っていた。
何かを言おうと口を開き…躊躇うように視線を逸らす。赤茶の猫目を僅かに彷徨わせた後、改めて彼女はランティスに向き直った。
「もう、全部終わったのか」
何が、とは聞かなかった。聞く必要もなかった。
主語のない質問に、薄笑い、「まぁな」とだけ返した。
彼女もまた、深くは問わず、呟くように「そうか」と口にした。そのまま、ふいとそっぽを向いてしまう。
そうして、一言。
「私は、役に立ったか」
「え?」
「私はあんたの、役に立てたのか」
頭上で木々が枝葉を揺らしている。葉裏を撫ぜて駆け抜けた風に、舞い落ちる緑もあった。
真っ直ぐ前を向いたまま、ランティスへ視線を向けもせずルーヴァベルトが問うた。表情は不機嫌気で、下唇がとんがって突き出ていた。
驚きに灰青の双眸を見開いたランティスは…ふと、笑うように顔を歪めた。むうと引き結んだ唇に苦い笑みを深めて、息を吐いた。
「例え切れぬ程に」
それは、心からの、言葉。
きっと、彼女が傍にいなければ、ランティスは最後まで進めなかった。
友の最期へ、進めなかった。
そこまで自分が強くないことを、ランティス自身、知っている。灰青の瞳が見せる強さの幻影の影にある、真の己の大きさを図り違えれる程、愚かにはなれなかった。
―――そうなれれば、楽だったのかもしれないと、思わなくもない。
(馬鹿な)
全く、馬鹿な考えだ。
どうやったって、愚鈍な選択をランティスはすることはできない。そうせずに済む程度には、ランティスにとって、世界は窮屈だが、美しいものであるからだ。
身を起こすと、静かにルーヴァベルトへ歩み寄った。足元で草葉がくしゃりと鳴いた。
警戒を露わに身を固くした婚約者殿の傍らに立ち、その場に跪いた。首を伸ばし見上げると、双眸を細め、微笑む。
「愛してる」
柔く、甘く、はっきりと、彼は告げた。何度でも言おう、と。
「お前の強さが、脆さが、生き様のその全てが愛しく、そして俺を救う」
「…ッ!」
「何度でも乞おう。お前の、愛を」
流れるような仕草で彼女の小指を取り…口づけた。冷たい指先に湿り気を帯びた唇が落ちる。一度、吸い上げるようにちゅっと音を鳴らした。
猫が毛を逆なでるが如く息を吸い込んだルーヴァベルトは、吊り気味の眼を大きく見開き、歯を食いしばって相手を睨めつけた。けれど、その耳は真っ赤だ。
正直、振りほどかれるか殴りつけられる覚悟もあったランティスは、存外可愛らしい反応に思わず相好を崩す。嬉々とした表情に、更にルーヴァベルトの眦がつり上がったが、その時には頬まで朱に染まっていたせいで、ただランティスを喜ばせただけだった。
ああ、本当に。
力を抜いた優し気な視線で彼女を見つめ、ランティスが呟く。
「本当に俺の婚約者殿は、不機嫌な顔しか見せてくれんな」
高い空で旋回した鳥が、同意とばかりに、一声、鳴いた。
婚約者殿は今日も不機嫌 とらじ @torazi
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