第122話-2

 長く続くように思えた階段は存外呆気なく終わり、その先へ延びる廊下を進む。

 むき出しの石床は、外の雨を吸い込んだように湿気て思えた。


 淡く揺らぐ蝋燭。そう明るくもない灯りのせいか、時間の感覚が曖昧になる。どれ程歩いたのかもわからぬまま進んだ廊下の先に、今度は上り階段を見つけた。


 階段の手前、向かって右側に先程とよく似た鉄製の扉。そっと引いてみたが、びくともしなかった。

 早々に諦め、階段を昇り始める。螺旋状に上へと向かう階段に、ユリウスの足音がじわりと響いた。



 と、途中の壁に、また扉が現れる。今度は木製の扉だ。どうやら、中が部屋になっているらしい。



 先程の下男はこの部屋に入ったのだろうか。

 ドアノブに手をかけるか迷った…その時。



 ―――ガジャンッ



 大きく鳴った金属音に、びくりと肩が震えた。


 反射的に、音のした方へ顔を向けた。上だ。


 同時に、獣の咆哮が響く。高く、低い、声。


 獣がいるのだろうか。


 では、先程下男が運んでいたのは、それの餌か。



(違う)



 ちらりと見えただけだが、あれは、人間の食事だ。



 ぞわり、とまた首筋が泡立つ。こめかみが痛い。警鐘が、ユリウスの足を止めようと頭を痛めた。



 けれど、見えない手に押されるように、ユリウスは階段を上り…知らぬ声が呼んだ名前に、息を飲んだ。



「ああ、もう、落ち着いて下さいよ、ヨゼフ様」



 苛立ったような男の声と共に、ガチャンと乱暴に置かれた食器の音。全く、と悪態が続く。



「そんな風に叫ばなくても、すぐにご飯を差し上げますから。ほら、ちょっと扉から離れて下さい」



 獣の咆哮が響いている。けれど、下男は慣れた様子で怯えもせずに鉄の扉の前に立っていた。

 持っていた盆を、扉の下側にある差し込み口から中へと押し込む。ガチャガチャと陶器が悲鳴を上げた。



 不意に、内側からにゅっと腕が伸びた。黒く汚れた、太い腕。下男の顔を掴もうとするように伸ばされたそれは、結局何も掴むこともできず、宙で揺れる。



「危ないなぁ」と、男が面倒くさそうに吐き捨てた。



「本当、大人しくして下さいって。暴れたって外にゃ、出られませんよ」



 尚もガチャガチャと扉の内側から伸びた腕は暴れまわり、獣の唸り声は大きく響いた。

 くっ、と下男が嫌らしい嗤いを浮かべ、肩を竦めた。



「…ま、そんなことわかんねぇか。いくらご当主の弟君でも、こうなっちゃ終わりだな」



 男の言葉は、酷く遠くに聞こえた。そのくせ、山の向こうの空で鳴る遠雷のように、しっかりと耳に届いて。



 気付けば一歩、前に踏み出していた。

 じゃり、と足元で石段が悲鳴をあげる。視界の隅で、こちらに気付いた下男がぎょっと身を仰け反らせたのがわかった。



 気にも留めず、のろのろと上る。下男が何か叫んでいる。後方で扉が開く音と、複数の声が上がった。

 それらがどこか別の空間でのやり取りのように聞こえていた。

 自分の身体であって、自分のものではないような身体は、引き寄せられるように下男へ近づいていく。


 正確には、下男が立つ扉の前。


 獣の咆哮が響き、太い腕が覗く、その扉へ。


 ユリウスは正面へ立ち、そして、真っすぐに、見やった。


 扉を。


 その扉の、中を。



 ―――知った名で呼ばれた、獣を。



 扉上部の格子窓から伸ばされた太い腕が、ガチャガチャと錆びた鉄の音を響かせる。相も変わらず言葉にならぬ獣の咆哮が続いていた。


 それを発しているのは、内側に立つ男。


 髪と髭はぼうぼうと四方へ延びて広がり、そのくせ顔は痩せてこけていた。肌は不健康に荒れている。



 薄汚い男だった。まさに、獣のよう。



 きっと、いつも通りのユリウスであれば、その様相に顔を顰めたことだろう。

 そんな反応さえ上手くできなかったのはきっと…男の濁った双眸が、記憶と同じ、ヘーゼルグリーンだったからだ。



 叔父さん―――呼びかけは、喉を越えた途端、呻き声にしかならなかった。あ、と、う、の間のような言葉が、喘ぐように漏れただけだった。



 叔父さん―――呼びかける声の代わりに、目頭に込み上げるもの。瞬けば途端に滴となって零れただろうけれど、それすら許されない気がして、涙をのみ込んだ。



 かつて叔父であったものは、尚も獣の叫びを上げ続ける。荒れ狂う腕が、ユリウスを掴もうと伸ばされた。



 その指先に、激しい憎悪を感じる。



 捕まる…寸での所で、階下から駆け付けた衛兵に庇われてしまった。下男が隣で何か訴えているけれど、よく聞こえなかった。

 そのまま、抱えられるように塔を後にした。果たして自分の足で戻ったのか、それすら定かではなかった。

 ただ、屋敷へ繋がる鉄の扉の前で、下男が必死に言い津の姿だけは鮮明に覚えている。



「どうか、どうかここへ来られたことは、内密にお願いいたします」



 縋りつく勢いで低頭する男は、ユリウスには知られぬよう、きつく言い使っているのだと悲痛な声を上げた。



 誰に、と問わずともわかった。


 きっと、いや間違いなく、父親だろう。


 ぼんやりとした表情のまま、どうでもよさそうに頷いて見せた。



 何故ここに。



 あの姿は。



 あの日、叔父の隣で並んだ彼女はどこに。



 疑問が頭の中で嵐のように巡る。その全てが、自身を切り裂く刃のようで。

 考えたくない。

 脳裏に過るのは、実父の背中。きっと、あの人が関わっている…それだけが確かなものとしてわかった。



 息ができないのではないかと思う程苦しい。

 そのくせ、身体は生きるためにきちんと呼吸を繰り返す。



 視界にこびりついた叔父の姿。否、あれは、獣だ。

 涙も出ない。



 悲観的ねぇ、と脳裏で声が聞こえる。懐かしい、甘い女の声だ。

 


 ―――どこにいたって、幸せになれるとは限らないでしょ

 


(その通りだ)



 今、彼女に会いたいと思った。

 柔い肌に触れて、きつく、抱きしめてほしい。

 それもかなわぬ願いだと、ユリウスは見開いた双眸で暗く闇がうねる廊下の向こうを見つめる。



「誰にも言わない」と、独りごちるように呟いた。

 

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