第122話

 それが目についたのは、ほんの一瞬の偶然だった。

 見たくないものから目を背け、耳を塞ぎ、薄眼で世界を垣間見るように息をする。「べき」だとか「義務」だとか、そんな言葉で押し付けられる煩わしきものに、極力触れぬように。

 そうして守っていたのは、多分、とても小さなものだったと思う。



 けれど、当時のユリウスにとって、それが全てだったのは確かだ。



 そうやって用心して視界を狭めていたにも関わらず、見つけてしまった。



 生憎の空模様で、鬱陶しい雨音が窓の外で鳴り響いている。こんな日は少しばかりこめかみが痛いと、そんなことを考えながら自室へと向かう途中。


 ふと、視界の隅で、人影が揺れた。


 普段なら気にも留めないことだ。事実、反射的に見やったその影は、名も覚えていない下男の背中。食器を並べた盆を手に、何処かへ急ぎ向かっている。

 食事をするには中途半端な時間だ。一体、どこへ盆を運ぶのだろう。そもそも、この廊下の先に部屋などないはずだが。


 ぼんやりと考えるユリウスの視線になど気づきもせず、下男は真っ直ぐ廊下を進み、突き当りの前で言ったん脚を止めた。

 壁には重たいタペストリーがかかっている。分厚いそれは、数代前の当主がデザインしただとかいう話だが、正直よく覚えていない。滅多に足を踏み入れない廊下の行き止まりに飾られている辺り、お情けで一応掲げられているだけのように思われた。

 立ち止まった下男は、徐に手を伸ばすと、タペストリーの端を掴む。それを横に除けると、奥に古臭い扉が現れた。



 え、とユリウスは眉を寄せる。



 下男は扉を押し開くと、するりと中へ滑り込んだ。ギギ、と重たい音をさせ開いた扉は、同じように重たい悲鳴と共に閉まった。

 瞼を一つ瞬かせ、ユリウスは足早にタペストリーへ駆け寄る。

 臙脂を基調とした古いそれを、先程の下男と同じく捲る。すると、やはり同じように鉄製の扉が現れた。

 黒灰の冷たい扉。隠されるように壁にはめ込まれたそれに、ぞわりと首筋が泡立つのを感じた。



 嫌な、感じがする。



 ずきりとこめかみが傷み、思わず顔を歪めた。同時に、ドアノブに手をかけ、気付けば扉を押し開いていた。

 ギギ、と油の切れた音をさせつつ内へと開いた扉の先に、薄暗い石の階段が続いていた。右側の壁に、点々と蝋燭の灯り。心もとないそれに浮かび上がる階段は、大きく開かれた悪魔の口へ続くように、下へと伸びていた。

 気味の悪さと、気分の悪さ。

 片頭痛が警鐘のように痛む。



(ああ、嫌だな)



 思いつつも、引きずられるようにユリウスは、足を踏み出した。

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