第120話

 叔父が消え、一族悲願の王子と初めて言葉を交わした後も、ユリウスの日常はそう大きく変わることは無かった。

 少しばかり会話をしたからといって、ではお友達に…なんて簡単に話が進むわけじゃない。

 何より、常に不機嫌そうな王弟殿下は、側近をおかず、人を寄せ付けなかった。唯一傍に置くのは、ファーファル家の息子だけ。緩く癖のある亜麻色の髪をした、菫の瞳の優しげな少年だ。

 家から王弟殿下に取り入る様に言いつけられていたユリウスだったが、実際近づくこともできず、気を紛らわせるように女生徒と遊ぶことが多くなっていった。

 多くの異性は、フロース五家に名を連ねる名家の息子と本気で恋仲になろうとは思ってはいない。適度に優しく、親しすぎない距離感で遊ばせてくれるユリウスは、見目も整っていて、遊び相手としては丁度よかったのだろう。

 ユリウス自身、それで構わなかった。

 眼に見えない何かから逃げる様に、振り返らずにいられるように、目の前の享楽に溺れた。

 そんな中、遊び相手の一人が、学院を辞めるのだと笑った。

 親が事業を失敗し、二回り上の豪商の愛人になることが決まったのだと、自分に甘え縋るユリウスの髪を撫ぜつつ告げる。



「残念だけど、貴方との関係も終わらせなきゃね」



 たっぷりとした赤味のあるブロンドを払いのけつつ、彼女は肩を竦めた。情事後、一糸まとわぬ白い肌に頬を寄せつつ、ユリウスは瞼を伏せた。

 ユリウスには、金も地位もある。けれど、何一つ自分の好きには出来ない。彼女を助けることはできないのだと、唇を噛んだ。。

 息を飲んだのがわかったのだろう。自分の太腿を枕に横たわる少年の頬を手の甲で撫ぜつつ、彼女は笑う。



「ねぇユーリ。私たちの関係は遊びだったけど、遊び相手なりに私はあなたが好きだったわ。肌に触れることを許す程度に。軽く、誰とも深い関係にならないくせに、肌を合わせれば縋ってくるあなたが、私は可愛かった」



 視線を上げると、おっとりとほほ笑む藍色の瞳と目が合った。



「可愛いユーリ」と、星空に似た眼を瞬かせながら、彼女が歌う。



「あなたが抱えているものを私は知らないけれど、その重みに耐えられなくなる前に、救ってくれる誰かに出会えることを祈ってる」



 彼女は優しく、良い匂いがして、柔らかく、大好きだった。

 出来れば手放したくないと思う。けれど、彼女はそれを望まず、ユリウスもまたそうする術を持たない。



「可哀想だ」とユリウスが呟いた。



 結婚という檻で望まぬ相手に飼われることになる先を、無意識に憐れむ。

 すると彼女は、ゆっくりと首を横に振った。



「勝手に私を憐れまないで」



 怒る風でもなく、子供に言い聞かせるように、優しく続ける。



「旦那様は頭は少し淋しいけれど、小ぶりな瞳が可愛い方よ。おっとりとお優しいし、私が望むなら、好きなおけいこ事をさせて下さるんですって」


「でも愛人だなんて」


「愛人になるのでなければ、私は親に娼館へ売りとばされるわ。今選べる選択肢の中で、一番良いものよ」


「…幸せになれるとは思えない」


「悲観的ねぇ。どこにいたって、幸せになれるとは限らないでしょ。事実、地位も名誉もフロース五家の名があったって、あなたは幸せには見えないわ」



 思わず顔を歪めた相手に、彼女は柔く笑む。



「幸せの尺度は人によって違うの。ユリウス、私を憐れまないで。幸せであったり、幸せでなかったり、人生はそれの繰り返し。誰であったとしても、ね」












 それから暫くして、学校をやめた彼女が愛人として豪商に囲われたと噂が流れた。

 好奇と悪意で満ちた囁きは、予想外にユリウスの胸を抉り、不快にさせた。

 あちらこちらで漏れ聞こえるそれらから逃げ出し、行きついた先は、数年前に一人で泣いた庭園の花木。何の因果か、今もまた、霧雨が天から落ちる。

 ふらふらと花木の側でしゃがみ込んだ。膝を抱え、額をそこへ押しつける。項を柔い雨が濡らしてゆく。

 気付けば涙が零れた。

 初めて気づく。彼女は、少しだけ、特別だったのだと。ユリウスにとって、大事な人だったのだ、と。

 ふわり、と心の内に刹那的な感情が芽生えた。

 死にたい、消えたい、という願いは、甘美な救いに思えた。

 何一つままならず、何一つ救えず、今更大事なことに気付く情けない自分など、そうなってしまった方がいいのだと、楽な方へ心が向かいかけた。

 その時。



「お前、いっつもそうやって泣いているな」



 記憶よりも僅かに低くなった声が、ため息交じりにそう告げた。

 驚いて顔を上げる。ぱちくりとさせた垂れ目から、ぽろり涙が零れた。

 目の前に立つ赤髪の王弟殿下は、以前と同じ緑の傘を片手に、しかめっ面でユリウスを見下ろしている。



「今度こそ目玉が溶けるぞ」



 思わず「覚えてるのか」と呟いた。それに、呆れた様子で相手がため息をついた。



「今度は何で泣いてるんだ」



 ユリウスの問いには答えず、逆に問いかけてきた王弟殿下に、眼を見開いたまま「フラれた」と答えてしまう。慌てて口元を押さえたが、後の祭りだ。



「女に振られて泣いてんのか、お前」


「うるさい」


「情けねぇなぁ」



 そう言いながら、昔と同じく傍らにしゃがみ込んだ。



「泣くくらいなら、振り向かせる策を考えろよ」


「駄目だ。俺じゃ、駄目だ」


「何だそれ」


「ほっといてくれ」



 ふて腐れたユリウスの隣で、ふうんと鼻を鳴らし、王弟殿下は天を仰ぐ。

 相変わらずの霧雨は、しとしとと空気を湿らせ、世界を包み込むように落ちてくる。

 その様子を、何も言わず、灰青がぼんやりと見つめていた。

 ちらと横目で見やりながら、目尻に溜まった涙を拭う。鼻から吸った息を鼻から吐き出すと、肩の力が僅かに抜けた。



「何でそこにずっといるんだ」



 暫くして、小さく問うた。

 彼は視線だけユリウスに向けると、すうと眼を細めた。無表情のまま立ち上がる。



「もう、いいな」



 大きく伸びをすると、傘をくるりと回した。雨の雫がくるりと弾かれ、宙へ舞った。

 まるで何事もなかったかのように、赤髪の王弟殿下は歩き出す。振り返りもしなかった。足元の土が、以前と同じように、じゃりりと鳴いただけ。

 その背を、茫然と見送った。

 気付くと死にたい、消えたいと言う気持ちが消えていることに気付く。

 不意に、記憶の中の声が聞こえた。




 ―――一人で泣くなよ。淋しいだろ




(俺は…)



 淋しかったのだろうか。

 もう一度、王弟殿下の去った方角へ眼を向けた。

 雨に濡れた庭園だけが、雑音も消して、深々とそこに広がっている。

  

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