第119話
夢であったなら、と願った。
夜闇と、雷鳴が見せた、夢だ、と。
そんなユリウスの願いを打ち砕くように、見知らぬ娘と共にこっそり会いに来た叔父は、一族から逃げ出した。すまない、と涙を見せて。
夢ではなかったのだと悟り、同時に自分の父親はああも冷たい声で誰かの死を望めるのだと知った。
胸の中は様々な感情が入り混じり、一体自分がどう思っているのかがわからない。怒りなのか、哀しいのか、恨めしいのか、恐ろしいのか。
ただ一つはっきりしていたのは、それを父親に知られてはならない、ということだ。
あの人は、いとも簡単に他人を殺す。
その狂気が、決して自分に向けられないなんて、ユリウスには思えなかったのだ。
何でもないふりをして家族の前で過ごし、何でもないような顔で家を出て学院へ向かった。
その先で、逃げ込んだのは、庭園だった。
小雨が降り注いでいる。もう、雷鳴は遠くへ去り、残されたのはしとしとと落ちる細い雫だけだ。
庭園を駆け抜けて、緑に覆われた端の、丸く刈り込まれた低い花木の根元に座り込む。抱えた膝に顔を埋めると、ぶわり涙が込み上げた。
頭の中で、凍えた父親の声が蘇った。次いで、叔父の怒号。
知らない男爵の名前だった。その人を殺したと言っていた。まるで気にするそぶりもなく。
いずれユリウスは父親の跡を継ぎ、ガラドリアル家当主となる。
その時は自分もまた、父親のように冷えた声で誰かを殺すように命じるのだろうか。
(こわい)
漠然とした恐怖が足元から這い上がり、全身を犯していく気がした。
涙が零れる。
頬を伝うそれは熱く、反して降り注ぐ雨は冷たい。
頭の中はぐちゃぐちゃで、様々な色の絵の具が絞り出されて汚れた色に変わっているような感覚に襲われた。思考はまとまらず、気持ちが悪い。
このまま雨に溶けて消えてしまえれば…下らない願いが胸の内に浮かんだ時だった。
じゃり、と土を踏む音がした。
誰かいる…そう気づき、慌てて顔を上げる。
「…ッ!」
目の前に灰青の一対を見つけ、涙にぬれた双眸を大きく見開いた。
「泣いてんのか」
向かいにしゃがみ込んだ少年は、赤髪を揺らし小首を傾げる。頭上に差した緑の傘を跳ねる雨音が聞こえた。
自分の声よりも少し低い、甘く響く声。
―――一族の渇望する王子が、その瞳が、今、自分を覗き込んでいる。
驚きにごくりと唾を飲み込んだ。
不敬にならぬよう、跪かなくては…そう思う心とは裏腹に、相手を睨めつけるようにユリウスの顔が歪んだ。
無言のまま、再度顔を膝に埋める。どうせ相手はユリウスなど知りはしない。ほんの気まぐれで声をかけただけなら、すぐに飽きて捨て置いてくれるだろう。
しかし、ユリウスの心の内など知らず、首を傾げた王弟殿下は尚も口を開いた。
「泣いてるのか?」
不思議そうな口調が、やけに癪に触った。
関係ないじゃないかと腹の底がじわりと熱くなる。怒りと苛立ちが、こうもはっきりと自分の中で沸くことがあるのか、とも思った。厳格な父親の元、そういった感情は、湧き上がる前に萎んでしまっていたから。
とにかく感じたことのない熱さに、思わず唸り声を上げた。
「泣いてない」
「泣いてるじゃないか」
「泣いてない」
押し問答の末、何を思ったか、ランティスはユーリの傍に並んで蹲る。
空からは雨がしとしと落ちてくる。傘も差さずに濡れるユリウスと、一人傘を差したままぼんやりと天を仰ぐ赤髪の王弟殿下は、奇妙な沈黙の中、並んで座り込んでいた。
「お前の事、嫌いだ」
不意に、ユリウスが呟いた。
灰青の眼を持つ「精霊王の愛し子」。この王子が居なければ、ユリウスはいらぬ重圧をかけられることは無かった。父親と伯父が言い争うこともなかっただろうし、先日盗み聞いたような恐ろしい事も起らなかったはずだ。
全部こいつが悪い―――腹の底で鎌首を擡げた黒い感情は、どろどろと粘つきながら、ユリウスの中で蠢いている気がした。
「そうか」と、視線を上へ向けたまま、相手が返した。
「俺はお前が、好きでも嫌いでもない。そもそもお前の事を知らん」
「…あっちいけよ」
「どこに居ようが、俺の勝手だろ」
そう言うと、赤髪の少年は口を噤んだ。更に罵ってやろうかとユリウスは唇を開き…結局、何も言わずに黙り込む。
霧雨は相変わらずの調子で天と地を繋ごうと落ちてくる。冷たいけれど、柔い水の感触に、徐々に心の澱が沈んでいく気がした。
暫くそうして並んでいた。
やがて、思い出したよう雨雲の端へ青空が覗いた。雨が終わる、と独りごちるように赤髪の少年が呟いた。
徐に立ち上がると、裾についた土を払った。
「雨も上がるようだし、俺はもう行く」
別に傍に居て欲しかったわけじゃない、と心の内で悪態をついた。口に出さなかったのは、多少の理性が戻ってきていたからだ。
気にせず彼は続けた。
「だからお前も泣き止め」
「…何でそんなこと」
「あのな、一人で泣いてたら、涙ってとまらねぇんだよ。とまらねぇといつか涙で目玉が溶けるぞ。目玉がとけたらどうすんだ」
至極当然と言った様子で、王弟殿下が片眉を持ち上げた。そんなことも知らないのか、と驚くように。
むっとして言い返す。
「溶けるかよ」
「溶けるって。溶けたことねぇから知らんだけだろ」
淡々と、冗談めかすわけでもなくそう言うと、徐に手を伸ばした。と、乱暴にユーリの頭を撫ぜる。
「一人で泣くなよ。淋しいだろ」
ユリウスよりも低い、甘く響く声は、柔く優しく、終わりかけの霧雨の中に消える。
驚いて、顔を上げた。
真ん丸に見開かれた緑がかった碧眼と、灰青の視線が重なる。王弟殿下の瞳には、ユリウスに対する何の感情も浮かんでないように見えた。
興味も、憐れみも、嘲りも、何一つ。
ただ、己が思ったことを思ったように動き、口にしただけなのだろう。
ああ、気まぐれか、と、また腹が立った。
同時に、ほっとする。
目の前の相手は、一族が渇望する「精霊王の愛し子」は、ユリウスのことなど知らず、興味関心などなく、期待もせず、だというのに気まぐれで傍に居てくれたのか、と。
打算も、何も、なく。
じいと見下ろす視線を先に逸らしたのは、灰青だった。踵を返し、颯爽と歩き出す。足元の土が、濡れてじゃりりと悲鳴をあげた。
その背を、ただ黙って見送った。
涙はいつの間にか止まって、空には晴れ間がのぞく。
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