第118話

 悪いことはいつも、雨と共にやってくる。

 降り注ぐ細い糸は、天から悪意を引っ張ってくるようだと思うようになったのは、一体いつからだっただろうか。もう、思い出せやしない。

 だというのに、嫌な思い出だけは、いつも鮮明に頭の隅で蠢いているのだ。

 あの夜、どうして寝床を抜け出したのか、ユリウス自身、覚えていない。

 重く引かれたカーテンの向こうで、稲光が走る。白に似た金色と、空を震わす雷鳴に、夢の世界から引きずりだされたのだろう。

 夜の闇が支配する寝室で、ぼんやりと宙を見やった。いつもと変わらぬ室内は、暗さのせいか、闇の濃い部分に何かが蠢いているように感じられる。少なくとも、まだ十二になったばかりのユリウスには、恐ろしいものが潜むように思えたのだ。

 ぶるりと身を震わせ、そっとベッドを抜け出した。

 眼に見えぬ何かに怯え、物音をたてぬように注意を払いつつ、部屋を出た。素足のままだったが、掃除が行き届きよく整えられた屋敷内は、別段不都合もなかった。

 俄かに湿気を含んだ床と足裏が、ぺたりぺたりと滲んだ音をたてる。それは小さな音で、空を走る雷鳴によってかき消され、響くことは無かった。

 別にどこへ向かっていたわけではなかった。ただ何となしに歩を進める。

 その内、胸の中で渦巻いていた不安感が、奇妙な高揚感に変わっていった。

 こんな夜遅く、雨と雷が吹き荒れる中、誰もいない屋敷内を歩く。まるで勇者にでもなったような心持で、思わず顔が笑う。

 さぁ、どこへ行こうか。何処へでも行ける気がして、ふと、思いついた。



 ―――父上の書斎へ行こう。



 普段、近づくのも嫌な場所。今日も昼間、呼びつけられて酷く叱られた場所。父親が妄信する第三王子と同じ学院にいるというのに、未だ渡も付けられない息子に業を煮やし、怒る父親はユリウスの手の甲を鞭で叩くのだ。

 思い出し、掌を擦った。

 そうは言っても、父上…件の王子は、誰かを寄せ付けるのが嫌な様子なのです。

 脳裏に浮かぶ赤髪の少年は、凍てつく灰青の双眸を、いつもつまらなそうに細めて大股に進む。お近づきになりたい面々がどんなにすり寄っていっても、ちらとも視線を向けないのだ。たった一人、フルール家の息子を除いて。

 本当にあれが、父親の言う「精霊王」なのだろうか。まるで世界など見えていないような、そんな冷たい眼をした彼が。

 父親の期待に応えたい気持ちと、無理と思想を押しつける一族への反発が、腹の奥で燻っていた。

 真夜中、誰にも気づかれぬように、父親の書斎で悪戯でもできれば、少しは胸がすくかもしれない。そんなささやかな思いから、つま先をそちらへ向けた。

 部屋が近づくにつれ、どんなことをしてやろうかと高揚していく。大切にしている万年筆を隠してやろうか、それともペーパーナイフを暖炉の中に入れてしまおうか。

 そんなことを考えながら向かった先から、薄らと光が漏れているのを見つけ、びくりと身を震わせた。

 まさか起きて書斎にいるとは思わなかった。

 一瞬怯んだが、漏れ聞こえる声に、おや、と興味がわいた。

 誰かが言い争っている。一方は父親で、もう一方は…。



 (叔父上?)



 父親と仲の悪いはずの叔父の声が聞こえる。酷く声を荒げて、何がしか責めたてているのがわかった。

 むくりと沸いた興味に引きずられ、そっと扉へ近づいた。

 書斎の扉は閉まっている。普段は気づかぬ壁と扉の隙間から、細い灯りと怒声が漏れていた。

 そっと扉へ耳を押しつけ、中の様子を伺う。



 「…じられない!」



 怒りに満ちた大声は、叔父のものだ。



 「ヨハネダルク男爵を巻き込むなんて…!」



 まるで獣の咆哮のようで、扉越しだというのにユリウスの身体がびくりと跳ねた。背後では稲光に次いで、空を割る雷鳴が走る。



 「仕方がないだろう」と父親がため息をついた。



 「『王の獣』を手に入れるためだったのだ」


 「またそんな馬鹿なことを!」


 「大切なことだろう? 『王の獣』は、正しく『精霊王』の元に在るべきなのだから」


 「そのために男爵夫妻を殺したというのか?」


 「譲るのを拒んだというのだから、他の手が無かったのだ」


 「当たり前だろうが! 彼らの息子だぞ!」



 飛び交う物騒な言葉に、俄かに眼を見開く。ガラドリアル特有の緑がかった碧眼がを真ん丸に、息を飲む。

 殺した、とは何の話だろうか。

 叔父の言いようでは、まるで父親が誰かを害したようではないか。

 まさか、と思った。

 けれど、冷笑を含む父親の声は、まるでそれを肯定するように薄く響く。



 「何を言うか。人ではなく、あれは王の所有物だ。それ以外に、価値はないだろう?」


 「なっ…!」


 「大人しく王へ跪けば良いものの…どいつもこいつも、手向いおって」



 不意に声を低くし、忌々しげに吐き捨てた。



 「どちらにせよ、横やりが入り、こちらの手に『王の獣』が落ちることはなくなったのだ。お前の望む結果になって、文句はないのではないか?」


 「違う! 俺が言っているのはヨハネダルク男爵の…」


 「…ああ、そういえばお前が入れ込んでいる娼婦がいるのは、男爵の管轄下にある地域の公娼地だったな」


 「…ッ!」


 「男爵は、下町の整備に多く携わっていたようだな。お前の妓もその恩恵にあずかったか? だから腹を立てていると言うわけか」


 「兄上…!」


 「黙れよ、愚弟。これ以上騒ぎ立てるのであれば、その妓も殺すぞ。そうすれば少しは口を噤むことを覚えるだろう」



 叔父が、大きく息を飲むのがわかった。一拍置いて「失礼する」と低く唸る。

 ユリウスは慌てて扉から離れると、近くにあった飾り台の陰に滑り込んだ。同時に扉が乱暴に開かれる音がし、足早に去ってゆく靴音が遠くなる。

 その間、両手で口を押さえ、堪えた。

 どれくらいの間、そうしていただろうか。

 あれ程までに大きく鳴り響いていた雷鳴が酷く遠くに聞こえ、代わりに自分の心音が耳障りな程に聞こえる。ドッドッドと早い鼓動に引きずられるように、全身が戦慄いた。

 早くこの場を離れなければ。

 はやる心とは裏腹に、全身に力が入らない。

 ぴかり、と空を割った稲光と、窓を叩く雨音が、まるでユリウスを嘲笑うかのように響いた。

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る