第117話

 伏せた目をシーツへ押しつけ拭うと、くっと口端を吊り上げランティスは笑った。



「どうせなら、熱い抱擁とキスの方が、元気出るのだが」



 軽口を叩く声は少しばかり擦れていたが、気付かないふりをする。

 途端、頭を撫ぜていた手が赤髪を叩いた。ぎろりと赤茶の視線が男を睨めつけ、細められた。

 負けじとにっこり微笑み返す。



「慰めてくれる気があるなら、俺はいくらでもそれに付け込むぞ」



 お前が優しくしてくれるなんて、そうそうないからな。

 明るく言い放ったランティスを、胡散臭いものをみるようにルーヴァベルトが見下ろしていた。相変わらずな反応だが、多少は傷つくなぁと心の内で独りごちる。



「なぁ、ルーヴァベルト」と、呼びかけた、その時。



 さらりと黒髪を揺らし、少女が身を屈めた。そのまま、顔をランティスへ寄せる。



 ―――頬へ、唇を落とした。



「…ッ!」



 ひゅっと喉を鳴らし、ランティスは息を飲む。見開いた灰青は、驚きで焦点が合わなかった。

 それは一瞬の出来事。

 頬に触れた柔い唇の感触はすぐに離れ、身を起こした婚約者殿は、むっつりと不機嫌そうな表情で王弟殿下を見下ろしている。

 その顔を茫然と見上げたランティスは、二度、眼を瞬かせた。いつもの彼からは想像もできない間抜けな表情に、ルーヴァベルトがくっと口端を持ち上げる。それを隠すように、拳で唇を押さえた。

 もう一度、灰青の双眸をぱちくりとさせた男へ、彼女は小首を傾げて見せた。



「私は、あの人を、憎んじゃいない」



 小さな呟き。

 更に眼を見開いたランティスを残し、ルーヴァベルトは薄布を手で引き上げると、軽やかにベッドから抜け出した。ふわりと翻った薄布と、さらりと舞った黒髪の向こうに、苦笑交じりに佇むエヴァラントの姿が見える。



「戻る」



 短く兄へ告げると、さっさと部屋を出ていくルーヴァベルト。錠が外され、扉の開閉音が遠くに聞こえた後、申し訳なさそうな表情を浮かべた瓶底眼鏡がベッドを覗き込んだ。



「…大丈夫?」


「…いや、不意打ち、すぎんか」



 未だ茫然としたまま、眉をしかめつつランティスが零す。



「あの子なりに、慰めたつもりだと思う」


「そりゃ…うん…」



 視線を伏せた王弟殿下の、赤髪の隙間から覗く耳が赤く染まっていた。

 存外可愛らしい反応をする彼に、エヴァラントは顔が笑うのを必死で抑える。気付かれれば、きっと激怒することだろう。

 口元を押さえ、ベッドに腰かける。ランティスへ背を向ける形になり、ほっと息を吐いた。

 僅かに気まずげな空気が過り、振り払うようにランティスが口を開いた。



「…あの、双子は」



 どんな言葉が続くのか。

 それを確かめる前に、エヴァラントはゆっくりと首を横に振った。



「俺も、彼らも、君も、過去の遺物とは関係ない存在だ」



 拒絶を含む言葉に、転がったままの男は、ため息交じりに笑う。



「確かに。あれらは俺に興味がないといっていたからな」



 こちらとしても好都合だ、と独りごちる。

 瓶底眼鏡の奥で、色の違う双眸をすうと細めた。彼の言葉の真意を、振り返って確かめようかと思い…結局やめる。

 どちらでも良いじゃないか、と誰かが頭の隅で囁いた気がした。



「それはそうと、エヴァラント」不意に声色を低くしたランティスが、もぞもぞと身を捩る。



「お前、露骨にルーヴァベルトを避けるのはやめろよ。あいつが不安定になればなるほど、お前じゃなきゃ駄目だと突きつけられるようで、正直気分が悪い」


「そんな…」


「あいつを泣かせるな」



 俺以外のやつのことで泣かれるのを見るのは、正直不愉快だと唇を尖らせた。

 驚いた表情でランティスを見下ろしたエヴァラントは、眼鏡の奥で眼を瞬かせると、首を傾げる。



「…俺が、あの子にとってそういう存在でもいいの?」


「いいわけあるか」



 間髪入れずに吐き捨て相手を睨めつけたランティスだったが、すぐに「けどな」とため息をついた。



「俺は、あいつにとって『男』でいたいが、お前はあいつにとってそうじゃない。あくまでお前は『兄』だ」



 じいと灰青の双眸がボサボサ頭を見やり、くっと唇を三日月に歪めた。



「…そこを外れりゃ、その時は、違う手を打つだけだ」



 何せ俺は「銀の眼」などいらんからな、と付け加える。

 投げられた言葉にエヴァラントは薄く唇を開き…笑んだ。



「ところでラン君、そうしてると、本当に芋虫みたいだね」



 酷く柔い表情に、ランティスは忌々しげに舌打ちをし、「さっさと解け」と寝返りを打った。

  

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