第116話-2

 一通り暴れたランティスが大人しくなるのを待って、ルーヴァベルトが平坦に告げた。



「助けを呼ぼうとしても無駄だぞ。人払いしてる」


「はぁ?」


「お説教するって伝えた」



 話が全く分からず、顔を顰めエヴァラントを見やった。彼は肩を竦めると、「王弟殿下ともあろうお方が、おめおめと婚約者及びその兄を攫われたことに対する、ヨハネダルク兄妹によるお説教…という話だよ」と笑う。

 それに、益々ランティスは眉を寄せた。



「なんだそ…」


「だから」



 言葉を遮る様に、ルーヴァベルトが声を大にする。



「だから…今からあんたが、泣こうが、喚こうが、誰も変に思わない」



 少しだけ、声が、苦みを含んでいた。

 意味がわからず、ランティスは眼を瞬かせる。

 ベッドに備え付けられた薄布の隠しを、徐にエヴァラントがひいてゆく。さらりと柔い布地がベッドの四方を覆い隠し、中の二人の姿を見えづらくした。



「ラン君」



 おっとりとした声が、呼んだ。



「君の心は、君の物だ」



 薄布の向こうに立つ男の影が、静かに言葉を紡ぐ。「心は、君だけのものだ」

 優しい声だった。

 寒くもないのに、肌が泡立つのを感じた。

 耳の後ろから首筋を、冷たい指先に撫ぜられたようで、ランティスは眼を見開く。



「王弟であるランティス殿下ではなく、ラン君が、大事な人の死を悼むのを…誰も責めれやしない」



 途端、赤髪の男の顔が歪んだ。

 酷く痛いような、苦しげな表情。隠すように、シーツへ頬を押しつける。

 何を、と何でもなく笑ってやろうとして失敗する。自分の唇から洩れた擦れた声が情けなくて、唇を引き結んだ。



「友達だったんでしょ」



 瞬間、記憶の向こうに見えたのは、明るい茶色の髪。緩く癖のある前髪を髪留めでとめ、そこから覗く垂れ気味の瞳の色は緑がかった青。



 ―――名前を呼ぶ、その声は、今もはっきりとした音で耳の奥に響く。



 鮮やかな思い出が次々と脳裏を過った。先日の夜会が、幼い日に初めて会った雨の庭が、笑い合った日々に…向かい合う最期の時。

 鮮やかな記憶は、残酷な程煌いて、ランティスの中に在る。


 手放せない。


 手放したくない。


 手放せるはずが、ない。


 誰にも犯されない胸の奥の大事なところにあるものだと、漠然と感じた。目元に熱が集まり、同時にせり上がってくる感情がぷくりと膨れて涙に変わった。

 零しては駄目だ、と歯を食いしばった。

 下瞼に溜まる熱が頬を濡らすことなど許されない。自分の立場と、終えた始末と、そして緑がかった碧眼の「望み」がそれを許さない。

 鼻から吸込んだ息を同じように吐き出すと、呼吸が震えているのに気付いた。

 落ち着け、と胸の内で繰り返すランティスへ背を向けたまま、ぽつり、ルーヴァベルトが口を開いた。



「心は、歪むぞ」



 婚約者である男に跨ったまま、じいと何もない宙を見つめる。「そんで、簡単に壊れる」

 まるで独りごちるような口調。

 慰めるでも、言い聞かせるでもない。淡々と、ただ平坦に、口から言葉が零れ落ちているだけのように。



「大事な人が死んだら、哀しいなんて、当たり前だ。悲しいって気持ちを、殺しちゃ駄目だ」



 そんなの、淋しくなる一方だろ、と彼女は息を吐いた。



「私たちは怒ってて、あんたは叱られてて…だから今、どんだけ泣いたって、いいんだ」



 ランティスは、ぐっと歯を食いしばったまま、目前のシーツを睨み付けた。

 両目が熱い。

 瞬きもしない双眸から、支えきれなくなった涙の雫が、ぽたり、ぽたりと落ちた。

 肌触りの良い白のシーツは、暴れたせいで皺が寄ってしまっている。そこに落ちた雫が、灰色に滲みてゆく。

 引き結んだ唇の奥で、唾液を嚥下した。ごくりと喉が鳴った。無意識に息遣いが荒くなっていく。


 胸の奥に、針が刺す。


 細くて長い針が、一本、二本、三本、と。


 痛い、と思った。


 胸の奥が、針が刺す心が、痛くて、熱くて、苦しくて…淋しい。



(迷うな)



 ぎゅっと瞼を伏せ、己へ言い聞かせる。迷っては、駄目だ、と。

 迷えば、浮かぶ。果たして自分がとった道は正しかったのだろうか、という疑問。

 迷ってはいけない。

 疑ってはいけない。



 ―――例え彼の人が、掛け替えのない大切な友人であったとしても。



 歪むぞ、とルーヴァベルトは言った。

 簡単に壊れる、とも。

 不意に、上に乗っかった重みが消える。腰を上げたルーヴァベルトは、ランティスの顔を見ぬように身を捩ると、ベッドの上に座る。相変わらず背は向けたままだった。

 と、遠慮がちに手を上げた。決めかねる様に彷徨った右手は、やがてぎこちなく赤髪に触れた。



「ルー…」



 慣れぬ手つきで、けれど優しく、ランティスの頭を撫ぜる。

 ドン、と胸の奥で心臓が跳ねた。

 同時に、もう一粒、涙が落ちた。

  

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