第108話
孤を描く螺旋階段を駆け下りる最中、不意に視界に飛び込んできた赤い影に、ぎょっとルーヴァベルトは足を止めた。
反射的に臨戦態勢をとると、相手を確かめもせずに拳を突き出す。びゅっと風切音をさせた突きを、寸でのところで避けた人影は、反対に彼女の腕を掴み捻り上げた。
「…ッ!」
身動きが取れぬよう背中へと捻られた腕に、肩へ痛みが走る。顔を歪めたルーヴァベルトが次の動きをとる前に、後ろに続いたエーサンが強い殺気を放った。
彼は両肩にエヴァラントと気絶したマリーウェザーを抱えている。それでも尚臨戦態勢に入ろうとする男に、慌てたような声が上がった。
「待てって!」
同時に、ルーヴァベルトが解放される。
前のめりにたたらを踏んだ少女は、くるりと振り返り眉を顰めた。
「ラン…様」
「そう、ラン様だ」
呆れ顔で息を吐いた軍服姿の男は、口元を押さえつつ婚約者殿を睨めつけた。
「躊躇なく殴りかかってくんなよ。避けれなかったらどうするつもりだったんだ、お前」
「敵だと思ったんで」
「まぁ、そうだろうけどよ」
渋面のまま深いため息をつき、じろりと後ろのエーサンへ眼をむける。
先日、夜会で見かけた男か、と灰青の双眸を細めた。両肩に抱えた荷物に、こめかみを押さえる。
「…エヴァラントは、無事か」
甘さの消えた低音で問うと、抱えられたまま「無事でぇす」と情けない声が返った。抱えられたまま身じろぎ一つしない姿に渋面を深めつつも、一応無事であることにほっとする。
反対側に抱えられたメイド姿の荷物に、ランティスは視線をルーヴァベルトへ向けた。彼女は別段表情を変えることもなく、変わらぬ赤茶の猫目でじいと見返した。
抱えられているのが誰か、すぐに気付いた。
生きているのか、死んでいるのか。何故抱えて連れ出す気なのか、等腹の底に疑問が浮かぶが、声にせずに飲み込む。
無駄な問答をしている場合ではなかった。優先すべきことがある。
灰青を瞬かせ、改めてルーヴァベルトを見つめた。
頬が赤く腫れていた。口端には黒く固まった血が溜まっていた。
懐かしい男装姿に、皮肉めいた笑みを浮かべるランティス。くっと喉を鳴らし、自嘲交じりに首を振った。
「本当に…格好よく助けさせようって気がねぇなぁ」
「なんですか、そりゃ」
「いや、無事ならいいんだ」
そう言うと、顔から笑みを消す。
「謝罪と説明は、全て終わってからまとめて。とりあえず今は塔の外へ出ろ。ハルがいるから、合流するように」
一拍置いて、ルーヴァベルトが頷いた。ちらと後ろに視線を流すと、ざんばら髪の男も首肯する。
ルーヴァベルトは何も問わなかった。素直に、ランティスの言葉に従った。
そのくせ、その瞳だけは、物言いたげに灰青を覗く。
手を伸ばし、キャスケットを被る頭を優しく撫ぜた。
「俺は、やるべきことがある」
不意に柔く笑んで見せた男の声は、言い聞かせるように甘さを含んだ響きだったが、どこか独りごちるようにも聞こえ、ルーヴァベルトは唇を引き結ぶ。
始末をつける、と彼は呟いた。
「俺の役目だ」
ついと視線を螺旋階段の先へ向けた。灰青がどこを見つめているのか、ルーヴァベルトにもわかる。
もう一度、ぽんと頭を叩き、男が脇に除けた。
「行け」
そう促すと、自身は上へ向かうため、階段を登ろうと足を踏み出した。いつもと違い、軍服の片肩に取り付けられたマントが翻る。拍子に、腰に佩いた剣を見とめたルーヴァベルトは、俄かに眼を見開いた。
手を伸ばしたのは、意図したものではない。
気付けば、相手のマントをぐいと掴んでいた。
驚いて振り返ったランティスに、同じく驚いた顔を返すルーヴァベルト。困った様子でしきりに眼を瞬かせつつ、眉尻を下げた。
「え、と」
「何だ?」
婚約者殿と、自分のマントを掴む手を交互に見やり、ランティスが小首を傾げる。
何と答えれば良いか、何故自分がそんなことをしたのか、ルーヴァベルト自身わからない。
判らないまま、口をついて言葉が零れた。
「待ってる」
布地を引く手に力を込め、繰り返した。
「外で…待ってる、からな。絶対」
ランティスは一度眼を見張り、灰青の眼を丸く輝かせた後…見たこともないような顔で、笑んだ。
「そうか」
子供が泣く前の、くしゃりと崩れた笑顔。
しくりと針が刺すように感じたルーヴァベルトの胸の痛みは、一体何の痛みなのだろう。
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