第106話

 思い出したのは、ジュジュの言葉だった。


 知識は貴女を守る盾に


 知恵は貴女が戦う剣に


 礼節は貴女の邪魔を振り払う槍に、と。



(考えろ)



 考えろ、考えろ、考えろ。

 石床に立って、灰黒の石壁に触れた。ひやりと冷たい無機物の感触。指先に、じゃりと砂を感じた。

 扉にはきっちり錠が降ろされ、押そうが引こうがびくともしなかった。偉く頑丈な造りに、僅かな違和感を感じる。一体、ここは何のための部屋なのだろう。

 考え…すぐにやめた。

 それは今、関係のない事だ。ルーヴァベルトがすべきは、ここから、身動きの取れない兄を連れて、どう逃げ出すか、を考えること。



(先生が外にいる、けど)



 けれど、だから安心、というわけではない。

 今の所、ユリウスは自分たちに危害を加える様子はなかったが、状況がどう転ぶかはわからなかった。もしかしたら、気が変わった男が、二人を殺しに扉の向こうで笑っているかもしれない。

 エヴァラントは動けないのだ。いざとなったら、自分が兄を護りながら戦い、逃げるしかなかった。

 考えろ。

 考えろ。

 思考をやめるな、と頭の裏側で声が響く。それはルーヴァベルトの物のようで、ジュジュにも似ていたし、全く知らない誰かの声でもあった。

 考えろ、と囁く声。


 どうやってエヴァラントを護るか。

 どうやってここを逃げ出すか。

 ―――どうして、こんなことが起きたの、か。


 胸の内に浮かんだ疑問に、ルーヴァベルトは眉を顰めた。知らず舌打ちをする。

 正直、考えたくもない事だ。

 ユリウスが、何故、こんなことを起こしたか、なんて。

 それにマリーウェザーが手を貸している理由、なんて。

 ああ、考えたくない。

 知りたくもない。

 石壁をなぞりつつ室内を歩きながら、ため息をかみ殺した。

 知った所で何になるだろうか。きっと、苛立ちと不満、ついでに虚しさが増すだけだ。

 だから、考えないように、関わらないように、素知らぬ顔をしていたのに。大事なものは家族だけだと、そのためだけの仕事だと、割り切って。



(…本当に私は、馬鹿だ)



 割り切れるはずがないのに。


 上手くやれるなんて、どうして思えたのだろう。いや、あの時は、兄と老いた乳母さえ生きていけるなら、他がどうだろうと、自分がどうなろうと、関係ないなんて嘯いて。


 割り切れるはずがないのだ。


 知ってしまった。


 関わってしまった。


 ルーヴァベルトにとって、あの屋敷に足を踏み入れた時から、己の置かれた状況を受け入れた瞬間から、それを取り巻く人々との関係が割り切れるものではなくなっていたのに。


 彼らは「家族以外」という括りの大勢ではなく、各個の名前を、意志を、ルーヴァベルトに向ける心があると、知ってしまった。


 そして、それを大事に思う、自分の心も。



 ―――割り切れるはずなど、ない。



(考えろ)



 壁から手を離し、両手で顔を押さえた。くっと唇を引き結び、掌でぐりぐりと両目を擦る。微かに濡れた肌に、気付かぬふりをした。

 ソムニウムでは、指示された通りに仕事を熟せばよかった。考えるのはルーヴァベルトの役目ではない。必要なことを、求められる通りに立ち直って。

 けれど、今は違う。

 ルーヴァベルトは考えなければいけない。何が必要で、どう動いて、その結果がどうなるのか、を。

 そのための知恵を、知識を、与えられた。

 ルーヴァベルトは考えなければならない。逃げるわけにはいかなかった。全ては自分の為で、護りたいもののためなのだから。

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