第105話

 しょぼつく眼を手の甲で乱暴にこする。けれど、眠気は綺麗に消えてくれない。

 既に三杯目を飲み干さんばかりの勢いで濃く淹れたコーヒーを呷ったアーベルは、舌先に残る苦さに「うへぇ」と渋い顔をした。

 いつもよりも随分早い時間の執務室の窓は閉め切られている。硝子越しに差し込んでくる光は眩しくて、室内の陰影を色濃く浮き立たせていた。

 部屋の奥では上司が机にかじりついている。山積みにされた資料を物凄い速さで眼を通し、何かを書きつけてゆく。爽やかな朝の陽ざしの中だと言うのに、赤髪の王弟殿下の双眸は血走って、爛々と輝いていた。

 ちらと見やったそれに、慌ててアーベルも作業に戻る。

 そこらに散らかした資料は、既に上司である王弟殿下が仕分け終わったものだ。それを今度はアーベルが分類毎、担当部署ごとに纏めていった。

 この作業の行く末に起こるであろう混乱を思うと、胃がきりきりと悲鳴をあげる。心なし酸っぱくなった気がする唾液をごくりと嚥下すると、アーベルはこっそりため息をついた。

 朝早くからランティスの遣いがやってきて、叩き起こされたのが少し前の話。すぐさま出てこいとの言付けに、朝食どころか目覚めのコーヒーすらなく出勤した。既に机にかじりついていた上司からは朝の挨拶も飛び越して、仕事の指示をされて今に至る。

 ランティスの指示は至って簡潔。けれど、聞いた瞬間青ざめた。

 どうして、と尋ねることも許されぬまま業務に当たっているが、未だに疑問が頭の中でぐるぐると回ったままだ。

 と、不意に執務室の扉がノックされる。乾いた音に、慌ててアーベルは立ち上がると、扉へ駆け寄った。

 細く扉を開き、外を覗く。暗い顔をした小間使いが小さく頭を下げたのが見えた。つられて倣うアーベルに顔を近づけると、小間使いは用件を囁いた。

 途端、アーベルの顔が白くなる。

 構わず、もう一度頭を下げた小間使いは、用は済んだとばかりに小走りで廊下を行ってしまった。

 茫然としたまま扉を閉めたアーベルの背に、低い声が投げられた。



「何だ」



 視線は手元に落としたまま、ランティスが問う。声にいつもの甘さは無く、何処か切羽詰まって響く。

 そんな上司を振り返ると、動揺に碧眼を揺らしつつ、擦れた声で答えた。



「お、王太子殿下の毒見役が…し、し、死んだそうです」



 そうか、と返した声は、酷く平坦だった。別段驚く様子もなく、黙々と作業を続けている。



「し、死んだって」裏返る声で、アーベルが繰り返した。



「ふ、二人共って」


「だろうな」


「…っ! だろうな?」


「その方が信憑性がある」


「は?」


「馬鹿が浅はかに立てた杜撰な計画だ、と」



 抑揚無く告げると、不意に灰青の視線が上向いた。じいっとアーベルを見つめた双眸が、つと細められる。



「で、お前の方の報告は?」



 投げられた言葉の意味が分からず眉を寄せたアーベルの横で、控えめな声があがった。



「ルーヴァベルト様の居場所がわかりました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る