第103話

 乱暴に椅子に腰かけると、苛立つようにユリウスは足を揺らし始めた。忙しなく瞳を揺らし、親指の爪を噛む。引き結ばれた唇は微かに震えていた。

 窓際に座りぼんやりと外を見やっていたマリーウェザーは、その様子に眉を顰めた。



「どうした?」



 声を掛けると、ぎろりときつい視線をユリウスが投げる。彼らしくない顔つきに、思わず口を継ぐんだ。

 ヨハネダルクの兄妹を閉じ込めた部屋よりも、一回り程狭い部屋。螺旋階段を下った先にある小部屋である。椅子が一つと簡素なベッドが一つしかない室内だったが、窓は大きく、差し込む朝日が優しく石壁を照らしていた。

 上の部屋に比べ閉鎖感がない。兄妹がいる部屋は、ここに比べれば上等な調度品が備え付けられており、床には古いながらも絨毯が敷かれていた。対して、この小部屋は床石がむき出しである。だとしてもここの方が気安く感じるのは、大きな窓に鍵も格子もない扉のおかげだろう。



「ユーリ」



 もう一度、マリーウェザーが呼ぶ。立ち上がり傍に寄ろうかと考えたが、すぐにやめた。今、自分たちが置かれている状況は、それなりに神経をすり減らす。特に彼は、もう随分と不安定になってきていると、薄々感づいていた。下手に刺激するのは、それを加速しかねない。


 壊れてしまう―――恐ろしい考えが脳裏を過り、けれど振り払うようにストロベリーブロンドの頭を振った。


 両手でがしがしと髪をかきむしったユリウス。鼻息も荒く息をすると、何度も頭を横に振った。

 と、呟く…「羨ましい」と。

 前屈みに縮こまっていた身体を伸ばし、力なく椅子の背にもたれた。全身が、重い。



「羨ましい」もう一度繰り返す。



「羨ましくて、羨ましくて…妬ましい」



 口から、言葉から、どろり黒い毒を吐き出してる気がして、ユリウスは薄笑う。

 気付かなかった。己の腹の内に、このように重い暗さをため込んでいたなんて。

 気付かなかった。他者に向ける妬みは、同時に自分を切り裂くのだと。

 羨ましいと、そう思う。

 彼女が…ルーヴァベルト・ヨハネダルクが。



(羨ましい)



 ゆっくりを瞼を伏せた。裏側の暗闇に、先程の彼女の姿が浮かぶ。真っすぐに、ユリウスを見やる赤茶の双眸。

 憎い程に、真っすぐな、彼女の言葉。




 ―――それでも兄が私といることを選んでくれるなら、私は兄貴と一緒に居ますわ



 勝手だと罵ってやった。

 対し彼女は、嗤って返した。勝手なのはどっちだ、と。


 羨ましい。


 妬ましい。


 憎らしい。


 けれど。



「…もう、遅い」


「遅くなんて!」



 立ち上がったマリーウェザーが声を荒げた。そばかすの浮く顔は、酷く傷ついたように歪んでいた。

 ゆっくりと瞼を上げたユリウスはメイド姿の相手を見やり、作り物めいた笑みで、呟く。



「遅い」


「それに…きっと、何度繰り返したって、俺はまたこの道を選ぶだろう」


「…っ!」


「この道しか選べないんだよ、マリー。結局俺も、あの家の血が流れているから」



 自嘲めいた笑みで、天井を見上げた。

 とうの昔に諦めたはずの思いが、ふつふつと胸の奥で泡立っている。

 今更、と心の内で悪態をついた。今更何を思ったところで、何もかも遅いのに。

 改めてマリーウェザーへ目を向けた。苦し気に、痛むように、顔を顰めてユリウスを見つめている。

 その表情が、酷く彼の人に似ていて、知らず目尻を下げた。



「叔父上が羨ましい」



 徐に腰を上げると、立ち上がる。背を丸めたまま、視線はマリーウェザーに向けていた。

 痩せた顔に浮かぶそばかす。自分と同じ緑がかった碧眼。ストロベリーブロンドの髪は、かつて一度だけ見えた彼女によく似ている。



「叔父上は、抗って、抗って、一時でも逃げ出して…自由を得たのだから」



 緩慢な動きで立ち尽くすマリーウェザーへ歩み寄る。目の前に立つと、そっとその頬へ触れた。

 白い肌は存外冷えており、掌の熱と相まって、少しだけ痛い。



「俺は、君になりたかった」



 掠れた声に、メイドの小粒な双眸が見開かれた。

 窓の外に小鳥の囀り。それがやけに遠くに聞こえ、ユリウスは息を吐いた。

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