第100話

「今ならまだ止められる」



 緩やかな螺旋状の階段を降りる足を止めた。

 頭を傾け振り返ったユリウスは、皮肉めいた笑みを口元に浮かべ、片眉を持ち上げる。



「何を」



 低い囁きは石の壁に僅かに反響し、消えた。

 三段上で立ち尽くすメイドは、小粒な瞳の双眸を俄かに見開き、硬い声を投げた。



「何もかも」


「馬鹿な」



 茶色い髪を慣れた手つきでかきあげ、男が嗤った。乾いた声をあげつつ、ふと脇を見やった。窓とも呼べない掌ほどの小さな穴が壁に開いている。覗き込むと、昇る太陽が夜の残像を焼き、薄闇と雑ざる赤紫の空が四角く切り取られて見えた。


 朝が、きた。


 ああ、もうすぐだ―――胸の内で独りごち、ユリウスは双眸を細めた。



「ユーリ」マリーウェザーが呼ぶ。



「俺は、やっぱり…」


「今更どうにもなんないよ」



 まるで軽口を叩くように言い、ユリウスは視線を相手へ戻した。硬い表情のマリーウェザーは、お仕着せの黒いスカートをぐっと握りしめ、唇を噛んでいる。

 その姿に、思わず苦笑した。



「大丈夫だ。きっと上手くいく」


「…俺、は」


「大丈夫」



 腕組みをすると、内側の壁に寄りかかる。改めて見上げた年下の相手は、酷く心もとなさげで、普段より幼く見えた。

 何か言おうと口を開いたマリーウェザーは、けれど一旦口を閉じ、そうしてぽつりと呟いた。



「…ルー様も、気付いてる」



 俺が、こっち側の人間だって。

 項垂れる動きに合わせ、太い三つ編みがぶらりと揺れた。細く差し込む朝日の帯に照らされ、ストロベリーブロンドが光を纏って見えた。

 一瞬、男の顔に憐れみが浮かぶ。俯く姿に眉をしかめ、けれどすぐに顔をそむけた。視線を小窓へ向け、眩しさに目を伏せる。

 ルーヴァベルト・ヨハネダルクが気付いていると、容易に想像がついた。でなければ、彼女を攫うことは難しかっただろう。マリーウェザーもルーヴァベルトも大した痛手を負うことなくここまで連れて来れたということは、つまりそういう話なのだ。

 彼女が素直に連れてこられた理由は、と思案し…すぐに考えるのをやめた。彼女の真意がどこにあろうと、ユリウスには関係のない話だ。



「大丈夫だ」と、繰り返す。マリーウェザーは硬い表情のままユリウスへ眼を向けた。



「大丈夫、だ」



 笑みを深め、目元を弓なりにしてみせる。歪む顔に、自分でも違和感を感じた。

 それでもユリウスは笑みを消さない。



「御伽噺は、『めでたしめでたし』で終るもんだからな」



 マリーウェザーの顔もまた、歪んだ。苦しげに、悔しげに。



「上手くいきっこない」



 食いしばった歯の間から、呪いにも似た言葉が漏れた。せせら笑うユリウスは、小首を傾げゆっくりと眼を瞬かせた。



「そうか? 聞いただろ…あいつがが選ぶであろう道は、決まってる」



 そう言うと、答えも待たずに階段を下りだした。硬質な靴音が、上へ抜ける様に響く。

 反響するそれに瞠目し、マリーウェザーもまた、後を追いかけた。

  

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