第101話

 前触れなくむくりと起き上がった妹に、エヴァラントはほっとした。

 寝ぼけているのか、ぼんやりと宙を見つめるルーヴァベルト。目立った外傷はない。乱れた黒髪が顔にかかり、それを煩わしげに手で払いのけていた。

 ぐるりと視線を巡らせた彼女は、傍らに横たわる兄の姿を見つけると、ぱちりと猫眼を瞬かせた。

 驚いた表情が徐々に泣き顔に変わり…最終的に怒りを孕んで目尻が吊り上る。

 あ、やばい―――そんな考えが頭を過ると同時に、エヴァラントの横っ面が力いっぱい張られた。ばちんと大きな音と共に、自力で動かすことができないままの首が勢いよく横を向く。

 痛い、と声をあげる間もなかった。熱さにも似た痛みと、捻った首の引きつれで、思わず眼を瞑った。

 けれど、痛みよりも何よりも、ルーヴァベルトがいつも通り元気なことが嬉しかった。

 知らず、へらりと顔を緩ませていたらしい。それにまた、彼女の怒りを買った。



「何笑ってんだ!」



 怒鳴るとともに、頬を抓んで引っ張った。「いひゃひゃひゃひゃひゃ!」と今度は情けない悲鳴が上がった。



「何度も何度も簡単に巻き込まれやがって! この! クソ兄貴!」



 ぎりぎりとつね上げる。裏返る声で大きく「ごめん!」と叫んだところで、やっと手を離した。

 布団に落ちたエヴァラントは、ひぃひぃと声を上げた。痛む頬を撫ぜたかったが、如何せん身体が動かない。かといってルーヴァベルトに頼んでも、きっとまたつね上げられる気がした。

 ちらと伺うように、けれど左眼はぎゅっと瞑って、妹の様子を伺った。

 隣にへたり込んでいるルーヴァベルトは、表情を強張らせ、じいとエヴァラントを睨めつけていた。猫眼を丸く見開いて、赤茶の瞳が揺れる。ぐっと引き結ばれた唇は震えていた。


 ルー、と名前を呼ぼうとした…その時。


 ぽろり、と一粒、涙が零れた。


 ルーヴァベルトの赤茶の双眸から、ぽろりと、涙が。


 頬を伝う感触に、彼女自身、それに気づいたのだろう。顔を歪め、唇を噛む。堪える様に鼻から吸い込んだ空気に、胸元が大きく膨らんだ。

 もう一粒、涙が零れる。そうして、ぽろりぽろりと落ちる雫は、堰を切ったように溢れ彼女の顔を濡らした。

 それでもルーヴァベルトは、じいと兄を睨み付けた。

 睨んで、睨んで、睨んで、押し黙ったまま唇を噛みしめる。


 その様子に、知らず左眼の瞼を押し上げていた。


 途端、感情の渦がエヴァラントの中へと押し入ってくる。悲鳴のような、奇声のような、怒号のような、様々な感情が入り混じった声が乱暴に身体の中を暴れまわるのを感じた。


 同時に『見えない』左眼に、見えた。



 ―――泣きじゃくる、彼の日の幼い少女。



 柔らかな頬の膨らみに、今も昔も変わらぬ艶やかな黒髪。下級貴族の娘らしく、フリルとレースとリボンが可愛らしいワンピースを身に纏っている。そのくせ、未発達な手足を力いっぱい踏ん張って、怒りながら、泣いていた。



 ―――おいていかないで!



 劈くような叫びだった。


 いかないで。


 おいていかないで。


 そばにいて。


 いっしょに、いたい。


 言葉の一つ一つが、細く鋭い針となってエヴァラントの心に突き刺さる。穿つように、深く、深く。

 同時に、少女の姿が赤く染まっていった。まるで頭から血を被ったかのようだ。


 おねがい。

 おねがい。

 おねがい。



 ―――そばに、いたいよ…おにいちゃん

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