第99話-4

 薄暗い室内に、高い天井の端に見える小窓から仄かに光が差し込んで、闇がぼやけて見えた。柔らかな明るさに、夜が開け始めたのだと気付く。朝が来る。

 重たい沈黙の中、どうしたらよかったのか、とエヴァラントは心の内で呟いた。


 どうするのが、最善だったのだろう。

 今でもまざまざと思い出す。あの忌まわしい夜の出来事を。

 悲鳴と怒声、生ぬるい空気に、錆びた鉄の臭い。

 全身に焼け付いた怒りは、今もエヴァラントの身を焦がす。

 同時にこびり付いた後悔が、心の臓を締め付けていた。


 どうするのが最善だったのか。

 ルーヴァベルトから、家も、両親も、生活も奪った。どこで知ったのか、忌まわしいこの左眼を求めた輩に、何もかも呆気なく奪い去られて。


 全て失った。だというのに、エヴァラント自身はおめおめと生きながらえた。呪われた『銀の眼』と共に。


 燃え盛る生家から立ち上る炎に悪意が見えた。自分に縋って泣きじゃくる妹には、恐怖と困惑がとりついていた。

 様々な感情が一緒くたに押し寄せてきて、エヴァラントの中で嵐のように荒れ狂った。それらが全て自分ひとりの物だったのか、それとも他者の感情だったのか、今もわからない。

 ただ気が狂う程の感情の渦に飲み込まれ、意識は混濁していった。正直、その辺りの記憶があまりない。


 気付いた時には、エヴァラントを必死に呼びながら、泣きじゃくるルーヴァベルトの幼い腕に抱きしめられていた。

 脆く、弱い、温かな腕に。

 知らず左眼を抉ろうとしたらしい。痛みは突き抜けて、ただ熱さしか感じなかった。中途半端に傷ついた眼球は、視力を失い、「見る」ことだけが残った。


 どうするのが最善だったのか。


 今もまだ、わからない。


 けれど、あの日からずっと、エヴァラントの全ては、ルーヴァベルトの為に。

 知られなくなかったからか、とユリウスの罵りが脳裏で反復した。その通りだ、とゆっくり眼を瞬かせた。


 知られたくない。

 ルーヴァベルトにだけは、全てを知られたくない。


 全てを知った彼女の眼が、どんな感情を帯びて自分に向けられるかなど、知りたくなどないのだ。



「俺は」と、弱々しい声で、エヴァラントが呟いた。



「俺は、弱い」



 じわり、己の言葉が胸に沁みた。

 そうだ、自分は弱いのだ。とても、とても、弱くて、惨めで、大切な人すら護れやしない。

 何が「王の獣」か。



(鋭い牙も、切り裂く爪も、何も持たないくせに)



 見えるだけで、怯えることしかできない。

 見たくもない世界の真実はエヴァラントを追い詰めてゆき、心を疲弊させた。人の心は裏表を持っている。どちらを信じれば良いのかもわからず、恐れだけが増えてゆく。

 だから逃げた。文字の世界へ。

 裏も表もない、平面に刻まれた記号が全てのそこは、酷く心地のよい幻だ。



「俺には、君のような勇気はない」



 記憶の中に、ユリウスを見た。

 初めて研究室を訪れたあの時、緑がかった碧眼を細め、人懐っこく笑んだ男。

 一目で「見えた」。



「君の願いを知ってる」



 小窓から差し込む光が明るさを増した。薄く黄色を纏う白の輝きに、赤紫が混じって宙に帯を引く。

 眩しさに眼を細め、言った。



「そして、彼が選ぶであろう道、も」

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