第98話-2

 両手で顔を覆ったまま、ぐっとアンリは唇を引き結ぶ。目頭が熱を帯びた。駄目だ、今は未だ泣く時ではない。


 己の心を諌め、何もかも飲み込む。


 嘆きも、後悔も、今すべきことではなかった。


 今、自分にできることは。


 緩慢な動作で立ち上がったアンリは、ちらと執事へ眼を向けた。男は視線を合わせることなく頭を垂れた。

 灰色の頭を見下ろし、菫色の双眸を細め、平坦な声が言った。「ランへ伝えて」



「今からでも押さえられそうな証拠は、出来る限り押さえとくわ。まとまったらそちらに渡す。…だから」



 不意に、くしゃりと笑う形で顔を歪める。



「あの子の願いを、叶えてあげて」



 ジーニアスは応えない。黙ったまま、頭を下げていた。

 構わずアンリは出口へ向かい足を踏み出した。慌ててミモザがそちらへ向かい、扉を開ける準備をする。

 そんな兄をマリシュカが呼びとめた。



「お兄様!」



 歩を止めることなく出て行こうとするアンリを追いかけようと、彼女は立ち上がった。ドレスの裾を翻し駆け寄ろうとする令嬢の腕を、無礼にも執事が掴む。

 彼女は驚き、すぐに相手を睨めつけた。金色の双眸は臆することもなく、酷薄に菫色の瞳を見下ろしていた。

 咎めようと口を開く妹の言葉に被さる様に、アンリが、声を投げた。



「マリシュカ。貴女はここに居なさい」



 睨み付ける視線をそのまま兄へ向け、少女は眦を吊り上げる。



「何の説明もなく、はいそうですかと答えると思いまして? 私を何だとお思いですの!」



 知らず声が荒ぶる。同時に震えていたのは、怒りか、恐れか。



「ルーヴァベルト様が連れ攫われたのですのよ? お兄様は、それについて何かご存じなんでしょう!」


「マリシュカ」


「私はあの方の『花』ですわ!」



 それは、悲鳴に似ていた。



「私の…私の与り知らぬところで、死なせてなるものですか」



 一瞬、アンリが泣きそうに顔を歪めた。けれど、すぐに表情を顔から削ぎ落すと、冷やかな視線を妹へ投げた。



「黙って従いなさい。これは、ファーファル家次期当主としての命よ」


「いいえ!」



 一歩、マリシュカが前へ出る。しゃんと背筋を伸ばし、両手を前で硬く握りしめた。

 いいえ、ともう一度繰り返す。



「従えませんわ」


「マリシュカ」


「私が従うべきは、ルーヴァベルト様です!」



 自分の命を捧げた相手。


 これは矜持だ。マリシュカの、矜持。


 だから背筋を正す。真っ直ぐに、菫色の眼差しを、兄へ向けて。


 俄かに眼を見開いたアンリは、自分によく似た妹をじいと見つめ…顔を背けた。そのまま扉の前に立つ。

 扉を開けるべきかどうか迷い、ミモザがジーニアスへ眼をやると、彼は頷くように眼を瞬かせた。

 果たして、開かれた扉を前に、アンリは一言告げた。



「マリーウェザーは、ガラドリアル家の人間よ」



 マリシュカが息を飲む。構わず続けた。



「あの眼は間違いないわ。緑がかった色は、本家血筋のもの。化粧やメイド服で誤魔化していたけど、あの子は多分…」



 そこで言葉をきる。苦いものを噛んだように、眉を顰めた。



「とにかく、貴女はここに留まる事。間違ってもルーヴァベルト嬢を探しに行こうなど考えないで」


「ですが…!」


「何かの入れ違いで彼女が戻ってくるかもしれないでしょ。きっとランも当分戻らないだろうし…誰かが屋敷で待ってないと」



 不服げな顔のまま、けれどマリシュカは頷いた。不承不承ではあるものの、一応納得したらしい。

 その様子を一瞥し、今度こそアンリは前を向いた。頭の中でやるべきことを順にまとめてゆく。感傷が胸の奥をちくりちくりと刺すが、気付かぬふりで歯を食いしばった。


 マリーウェザーがルーヴァベルトを連れ去ったなら…その後ろにいるのが彼ならば、きっと彼女は殺されない。


 そうよね、と心の内で問いかけた。


 そう、ルーヴァベルトは殺されないだろう。


 殺されるのは、彼女ではない。



(…本当に馬鹿なんだから)



 俯きそうな顔を上向け、アンリは足を踏み出した。

  

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