第92話

 あからさまにほっとした様子のルーヴァベルトとは反対に、少年は眼をぱちくりと丸くした。

 当のエーサンはのんびりとした調子で二人に手を上げ合図する。歩調はゆったりと、まるで散歩の途中のようだ。

 しかし、その後ろには、何かを引きずっている。芝生に布擦れを起こす音が、はっきりと響いた。

 下がり眉の困り顔を向けたハルに、男は気まずげに頭をかいた。「ああ」やら「うーん」やらと首を捻ると、徐に引きずってきたそれを二人の前に投げた。

 どさり、と重い音を立て、臙脂色の人影が芝生に落ちる。見た瞬間、ルーヴァベルトが「あ」と声をあげた。

 ホールで、ルーヴァベルトが見た男、だ。



「向こう、から、刃物、で、ベルを狙ってた、から」



 照れたように服の端を握り、もじもじと照れ笑いを浮かべ、そう告げた。

 どうやら生け垣越しにルーヴァベルトを害そうとしていたらしい。芝生まみれになった夜会服の男は、白目を剥いて泡を吹いていた。よく見れば、両手があらぬ方向にねじれている。折れているらしい。

 一体どうして、視線をルーヴァベルトへ向けた。



 ―――その表情に、息を、飲む。



 柔く、緩んでいた。座り込んだまま、安堵に身体の力が抜けている。目元はまだ涙で潤んだままだったけれど、口端が緩く弧を描いて、微笑んでいた。


 心底、安心したように。


 彼女が男を呼んだのだ、と理解した。

 どうやって連絡を取り合ったのかはわからない。けれど、間違いないだろう。一片の驚きもない様子がそれを物語っている。

 視線に気づいたルーヴァベルトが顔を上げた。視線が合うと、途端、柔かった表情が強張った。



「あ…っと」



 何か言おうと唇を開けた彼女だったが、言葉になる前に、庭師が視線を逸らした。



「旦那様…」呟く。つられてそちらを見やったルーヴァベルトの耳に、乱暴な足音が複数、近づいてくるのが聞こえた。


 誰だろう…そう思う心に、頭の隅で、誰かが答える。赤髪の男、だよ、と。


 どくり、と胸の内で心臓が跳ねた。知らず首筋を掌で隠した。肌が、少し、引きつるように痛む気がする。



「ルーヴァベルト!」



 低い声が、怒鳴る様に名を呼んだ。

 びくりと身体を震わせた少女の眼に、赤い髪の王弟殿下の姿が映る。荒く肩で息をし、見開いた灰青の双眸で、薄闇の中、自分を探すランティスの姿が。

 座り込む婚約者殿を見つけ、強張っていた男の表情が、俄かに緩んだ。足元に転がる黒装束にも、脇によけて頭を垂れた庭師にも目もくれず、大股に彼女の傍に寄る。

 ルーヴァベルトの前まで来るとしゃがみ込み、その肩を掴んだ。



「怪我は?」



 硬い声。普段のような甘さはない。

 勢いに押され、赤茶の猫目が、二度瞬いた。それからやっと、小さく首を横に振る。首元は掌で押さえたままだった。

 途端、男の顔が緩んだ。ほっと肩を落とし、深く息を吐く。俯くと「よかった」と呟いた。

 項垂れた赤髪は乱れていた。徐にそれをかきあげると、灰青の双眸と目が合った。

 とろりと柔い光を帯びて、優しげにランティスが婚約者を見つめた。口元には、笑み。


 ルーヴァベルトは、何だか泣きたくなった。胸がしくりと痛む。針が、細い針が、心の臓を突くように。


 嫌でもわかった。


 痛い程伝わった。


 自分は、この男を、酷く心配させてしまったのだ、と。


 平気だ、と告げようとした。それに気が行って、思わず首元を覆う手が外れた。

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