第91話

 深追いするつもりはなかった。


 あからさまな挑発は、十中八九罠だろう。ルーヴァベルト一人誘い出せば今度は勝算有りということか。馬鹿にしやがって、と身体の内が冷えてゆく。

 それでも思惑に乗ってやったのは、こちらとて考えがあるからだ。上手くいくかは博打。けれど、確率は低くない。

 ホールを抜け出し、客らが談笑する玄関ホールを滑りぬけ、人気のない廊下へ出る。

 男がこちらへ来た確証はなかった。けれど、相手がルーヴァベルトに用があるならば、向こうが見つけてくれるだろう。

 磨き上げられた石の床に、ヒールが硬質な音を響かせる。それが壁や天井に反響し、やけに大きく聞こえた。


 程なく庭園に面した渡り廊下に出た。

 夜会が催されているホールから随分離れているせいか、周りの灯りは落とされている。空を覆う曇天に、月も星も見えない。湿り気を帯びた土の匂いだけが、そこら中に漂っていた。

 爪先を庭園へ向けたルーヴァベルトは、スカートをむんずとたくし上げ、駆け出した。一瞬、脳裏にジーニアスの顔が浮かぶ。誰かに見られたらどうする、と怒鳴る鬼執事の姿をかき消し、庭園を横断した。

 盛りを過ぎた紫陽花が、褪せた花弁を温い風に揺らす。緑は闇を写して濃く浮かんで見えた。

 庭園の真ん中に、高い生垣で造られた壁があった。不自然だと思いつつ、生け垣の切れ目を探し歩く。少し先に、まるで生け垣で整備された道を見つけた。中を覗き込むが、夜闇でぼんやりと滲む世界は、暗く黒く先が見えない。

 それは生け垣で造られた迷路。けれど、彼女はそれを知らぬままに、中へ足を踏み入れた。

 左手で生け垣をたどりつつ、奥へと進む。夜会の賑わいは聞こえず、深々とした夜の静けさに耳が痛い。

 ふと立ち止まると、靴を脱いだ。灰銀のハイヒールは、ドレスに合わせて誂えられたもの。踵部分に指をひっかけ持つと、裸足で歩き出した。生憎地面には芝生が生えており、足裏に心地よかった。


 さぁ、どこから仕掛けてくる、か。


 鼻から吸い込んだ息を細く吐き出しながら、ルーヴァベルトはにたりと顔を歪ませた。


 草の匂いがする。土の匂い、も。

 頭上を渡る葉擦れの音。

 ここには音楽もない。化粧の匂いも、香水臭さも感じられない。

 煌びやかな光は届かず、ただ、何が潜むかわからぬ闇が、じっとりと肌を舐めていた。

 きっと相手はルーヴァベルトがここにいると気付いているはずだ。遅かれ早かれ、追いかけてくるだろう。



(簡単に、やられてたまるかよ)



 ぺろりと唇を舐めた。

 不意に枝葉が大きくがさりと鳴いた。途端、足を止め振り返る。猫眼を見開いて辺りを見回すが、音の出所は見つからなかった。

 全身に緊張を走らせたまま、そこらの暗がりを睨みつける。いつの間にか呼吸が浅くなっていた。

 再度、ゆっくりと歩き出した。足裏で芝生の感触を確かめ、前へ進む。


 と、突然ルーヴァベルトが走り出した。


 全速力で走りながら、足にまとわりつくドレスを両腕でたくし上げた。パニエががさがさと悲鳴をあげる。無視して走り続ける。

 風音だけが大きく聞こえた。その中に、自分以外の足音が混じっている気がして、眉を寄せる。

 生け垣で出来た角を曲がり、その次の角をまた曲がった所で、ぐるり振り返った。そして、今度は元来た道を全力で駆け出した。

 前の角まで戻った所で、にゅっと人影が現れた。

 男だ。

 夜会服に身を包んでいる。

 突然現れたルーヴァベルトの姿に、男はぎょっと顔を歪めた。反対に少女は眼を見開いて嗤う。

 同時に、抱えていたスカートを放し、むんずと掴んだヒールを、強かに相手の顔に叩き込んだ。

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