第90話

 気まずい、とアーベルは飲み物を呷った。

 何杯目かわからぬお代りに、既に胃がぱんぱんに膨れている。押せば容易に逆流するだろうと、そっと腹部を撫ぜた。気持ちが悪い。

 それでも、隣に立つルーヴァベルトとの沈黙が重すぎて、またもやグラスに口をつけた。

 上司である王弟殿下の婚約者殿は、薄笑いを顔に張り付けたまま、アーベルと一緒に壁の花となっている。ぼんやりとホールへ視線を向けているが、別段何かを見ているわけではなさそうだ。何度か給仕に飲み物を薦められていたが、それも受け取らず、ただ黙って立っている。

 まるで意図的に気配を殺しているようだ、と思った。



(まぁ、そりゃそうだよね)



 内心苦笑いつつ、彼女にならってホールの中央へ眼を向ける。

 しっとりとした音楽に合わせ、身を寄せ合って踊る客。その中で、一際人目を引く二人が居た。


 ランティスとユリウスだ。


 ご令嬢方に囲まれて、逃げ出すように二人で踊りだした男たちは、情けない表情で抱き合っている。それを見て、そこかしこから黄色い声が密やかに上がっていた。

 皆、王弟殿下を付け狙う娘たち。顔がよく地位も実力もあるランティスは、彼女らにとって伴侶にしたい有力候補。すなわち、彼の婚約者であるルーヴァベルトは、非常に邪魔な存在である。


 だから彼女は只管気配を消し、ひっそりと佇んでいた。

 ファーファル兄妹も踊る今、あぶれたアーベルは、一応彼女の護衛として傍に居る。

 そもそも今夜の夜会は、ルーヴァベルトを一人にしないようにと無理やり駆り出されたので、アーベルもこの場を離れられない。先の一件は王弟殿下から聞かされており、今夜も襲われないとは限らないから…という理由らしい。

 が、先程見たご令嬢らの権幕を見ただけで腰が引けら自分では、到底太刀打ちできないだろうと、虚ろな視線を宙へ投げた。マリシュカ嬢に紹介してやるという甘言に乗せられた自分が、少し恨めしい。


 いやむしろ、自分よりもルーヴァベルトの方が強いのではないか。



(そう言えばこの娘、殿下の顎を砕こうとしたって…)



 自分の兄を殴り倒したともランティスが言っていたのを思い出し、さっと顔を青くした。随分大人しく立っているけれど、とんでもない暴れん坊じゃないかと唾を飲み込んだ。



 そんなアーベルの事など露知らず、ルーヴァベルトは欠伸をかみ殺すのに必死だ。

 夜会の騒がしさも遠くに聞こえる。まるで自分の周りだけ切り離された別世界のように感じられた。

 並び立った青年は、気遣わしげにルーヴァベルトの様子を伺っているが、決して目を合わさなかった。正直、気を使うのが煩わしい。

 今、自分は緊張している…そう感じていた。きっと何かが起こると、予感めいたもので鼓動が速い。誰かがルーヴァベルトを注視している、と、そんな気がした。

 不意に視界の隅で、ぎらりと銀が光る。

 無意識に追いかけた双眸が捕えた相手に、彼女は猫目を見開いた。

 離れた場所に、男が立っている。

 壁際で固まり談笑する客たちの向こう側で、男が、じいとルーヴァベルトへ鋭い眼差しを向ける。濃い臙脂色の夜会服に身を包んだ若い男。不躾な視線がルーヴァベルトと重なった時、彼はにたりと顔を歪め、嫌らしい笑みを浮かべた。



 ―――その手に持つのは、花を模した銀の簪。



 あの男だ、と直感的にわかった。

 先の夜会、バルコニーで取り逃がした、給仕の男。

 ルーヴァベルトが自分を認識したとわかると、相手はくるり踵を返した。顔だけ振り返ると、「着いてこい」と誘うように、挑発的に眼を瞬かせた。

 人波を縫いホールの出口へ向かう男の姿に、ルーヴァベルトも歩きだそうとした。

 が、一瞬考える様に瞼を伏せると、アーベルを振り返る。



「申し訳ありませんが、言付けをお願いしてもよろしいでしょうか」


「え」



 胡乱な様子で宙を眺めていた青年は、虚をつかれた様子で素っ頓狂な声をあげた。幼さの残る顔に驚きが広がるが、構わず小さく頭を下げた。



「ラン様にお伝え下さいませ」胸の前で握った拳に力を込める。



「昨夜の忘れ物を、取り戻しに参ります、と」



 言うや否や、膨らんだスカートの端を抓み、するりと歩き出した。後ろで眼をまん丸に見開いたアーベルが、何かを言っている。

 けれども、すぐに紛れ込んだ人ごみで、彼の声は聞こえなくなった。

  

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