第88話-2

 そんな彼女に、ユリウスがそっと顔を寄せた。耳元で囁く。



「色々聞きたいことはあるけれど、とりあえずこれだけ」



 君、ランのこと、好きなの?



 問いかけに、ルーヴァベルトは一度眼を瞬かせた。

 もう一度ターン。それに合わせて身を仰け反らせた時、流れる視界に燃える赤髪を捕えた。ほんの一瞬だけだったが、険しい表情で、じいとこちらを睨めつける灰青の光を、確かに見た。



「どういう意味でしょうか」



 元の姿勢に戻り、何でもない風に小首を傾げる。

 すると相手も、他愛ない会話であるように、軽く続けた。



「君が、どういう意図で彼の傍に居るのかが知りたいだけ」


「…意図、など」


「本当?」



 緑がかった視線が、ルーヴァベルトを見下ろす。口元は笑う形で孤を描いている。その実、目は全く笑っていない。

 探られているのか。

 それとも、試されているのか。



(こいつは、一体どこ側だ?)



 胸に浮かぶ疑問を押し隠し、さて、どう返すかと考えを巡らせた。果たして彼が求める「王弟殿下の婚約者殿」は、賢しい令嬢か、莫迦な娘、か。

 ふっと息を細く吸うと、唇を尖らせて見せる。



「私は、後ろ盾も何もない、ただの下級貴族の娘ですわ。親族と言えば、引きこもりの兄が一人きり。思惑を持とうにも、手札がありませんの」


「ああ、兄君は、エヴァラント・ヨハネダルクだったな。研究機関に出仕している」


「兄をご存知で?」



 虚をつかれ、思わず表情が崩れた。よもや、兄の名前が出るとは思わなかったからだ。

 その顔に、彼は愉快そうに、にっと歯を見せた。



「俺は、ランこそ王座に相応しいと思う」



 消え入りそうな声。

 華やかな音楽と、踊る靴音、布擦れの響きに紛れ、呟かれた一言。

 けれど、はっきりと、ルーヴァベルトの耳に届いた。

 彼女の口元から笑みが消える。表情が削げ落ちた視線が、怪訝に相手を見上げた。

 滅多に口にすべきではないと、流石のルーヴァベルトでも知っている言葉。

 彼は笑う。先程よりも、ずっと無邪気な顔で。



「俺は、王を傍で支えたい」


「ユリウ…」


「知ってる? 俺の一族のこと」



 三日月に歪めた双眸。ひやりと冷えた酷薄な視線。

 それは敵意ではなかった。

 どこか、憐れみに似ていた。

 悲しげな色を含んだ緑の碧眼が、じいとルーヴァベルトに向けられる。



「残念ながら俺は、過去の王様を崇める性質じゃない。親父達に聞かれたら、ぶん殴られるが…。回帰主義だからとか関係なく、俺は、あいつが王に相応しいと思ってる。だから、そう願うんだ」


「で、も」


「あいつは、それを望まないだろうけれど」



 冷えた双眸が、ついと上向く。その先にはきっと、彼の人がいるのだろうと、ルーヴァベルトは眼を伏せた。視線が重なった時、あの赤髪の男は、一体彼にどんな感情を向けるのか。



 そして今、ユリウスは、果たしてどんな顔をしている?



「俺は、ランが好きだよ」独りごちる言葉に、ルーヴァベルトは顔を上げた。



 未だ視線を遠くに向けたまま、薄く微笑み、ユリウスは続けた。



「友達でいたい。だから…嫌われるようなことはしない」



 但し、俺以外はわからないけれど。

 最後の呟きに被さるように、重奏が最後の音を響かせた。

 周りの客たち動揺、二人もまた、足を止める。名残惜しげに揺れたドレスのレースが、淡い白に光を放つ。

 少女から身を離した男は、一歩下がると、深々と頭を下げた。慇懃な仕草の後、上向けた顔は、苦く、苦しげに微笑む。



「君が、彼の弱みにならぬことを、願う」



 唇だけを震わせた音のない言の葉は、果たして彼女に、正しく伝わったのだろうか。

  

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