第87話-3

「ルーヴァベルト様?」



 怪訝に顔を覗き込んだマリシュカが、くるりと振り返る。青年が、慌てる様に視線を泳がせた。



「まあ」とマリシュカ。



「補佐官様」



 その声に反応したのは、ランティスだ。ユリウスとやり合うのをやめ、ついと視線をそちらへ向ける。

 そこに自分の補佐官の姿を見つけ、片眉を持ち上げた。



「アーベル」



 上司に呼ばれ、慌てて背筋を伸ばしたアーベルは、ぺこりと頭を下げた。



「何だ、お前も今着いたのか」


「いや、僕は、その…」



 顔を真っ赤にしたまま口ごもる彼に、ランティスが眉を潜める。

 助け舟を出したのは、ユリウスだった。



「彼は少し前に到着したんだ。丁度俺も着いたばかりだったので、声をかけて一緒に待っていたのさ。何せ、二人共同伴者が無し…なのでね」



 悪戯っぽく片目を瞑って見せた男に、緊張した面持ちのまま、アーベルは視線を彷徨わせている。どうやらマリシュカが気になるようで、落ち着きがない。

 ランティスはアンリと顔を合わせ、苦笑いを浮かべた。何とまぁ可愛らしい反応をするものだ、と茶化す気も失せた。ユリウスはにやにやと面白そうにアーベルを見ている。



「えー、アーベル。動揺しているところ悪いが、いいか?」


「ど、動揺? してませんよ!」


「あ、うん、そうだな、悪い」



 裏返った声で抗議した補佐官を軽く流し、後ろに佇むルーヴァベルトの肩をぐいと抱き寄せた。反動で揺れた長い黒髪が、尻尾のように背に流れる。



「婚約者のルーヴァベルトだ」



 挨拶せねばとランティスから離れようとしたが、がっちりと抱き込まれており離れられない。



「またかよ!」と内心悪態をつきつつ、とりあえず顔に笑みを作った。



「このような恰好で失礼致します。ルーヴァベルト・ヨハネダルクと申します」


「ご、ご丁寧に有難うございます! 殿下の補佐官を務めさせて頂いております、アーベル・マーベルと申します。宜しくお願いします!」



 再度頭を下げた相手に、ルーヴァベルトも簡単な礼を返した。ランティスが放してくれなければ、まともに挨拶も出来ない。鬼執事殿が見ていたら何というだろうか。きちんと主を叱りつけてくれればよいのだけど、と双眸を細めた。

 少し変わった名前の青年は、顔を上げると、遠慮がちにルーヴァベルトの表情を伺った。

 それに、にこりと作り笑いを向ける。ほっとした様子で、アーベルの肩から力が抜けた。



「それにしても、マリシュカ嬢。よくアーベルが俺の補佐官だと知っていたな」



 不意に話を振られたマリシュカは、「あら」と小首を傾げる仕草をした。



「お兄様から何度かお話を伺っておりましたので。実際にご挨拶させて頂くのは初めてですが」



 そう言うと彼女はアーベルに向き直り、綺麗な礼を取った。



「改めまして、ご挨拶させて頂きますわ。マリシュカ・ファーファルと申します。どうぞお見知りおきを、マーベル様」



 途端、青年の顔が火を噴きそうな程真っ赤に茹で上がる。魚のように口をぱくぱくさせながら、やっとのことで頷いた。



「おや、まぁ」とユリウスが顎を撫ぜる。



「ラン、君の補佐官殿は、本当に可愛いじゃないか。今にも鼻血を噴きそうだ」


「冗談にならんからやめてくれ。しかしあいつ、挨拶一つであれとは…恐ろしいな、マリシュカ嬢。あいつ、今夜死ぬんじゃないか」


「ちょっと! 私の妹を何だと思ってるのよ! これくらいで死なれちゃ、こっちが迷惑よ!」



 ぎゃあぎゃあと言いあいを始めた男共を余所に、マリシュカは嫣然とした微笑みをルーヴァベルトに向け、そっと耳打ちをした。



「安心なさって。私はルーヴァベルト様一筋でしてよ」



 意味がわからず猫眼を瞬かせたルーヴァベルトだったが、すぐに深く考えるのをやめた。貴族というのは変わり者が多いと、大雑把な括りで話を完結させる。誰が誰を好きだろうと、その相手がルーヴァベルトでないなら、関係のない話だ。


 生ぬるい風が庭から玄関を抜けて肌を撫ぜた。湿り気を帯びた土の匂いが鼻腔を擽る。

 何かを確かめる様に、ちらと視線を玄関の外へ向けた。

 闇は静かに、深々と夜を深めて広がっている。

  

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