第86話

 雨の向こうで、ぴかりぴかりと金色が煌めいた。

 少し遅れて雷鳴。嵐だな、とエーサンは窓の外を見やった。帰りは更に視界が悪いだろうと、眼を瞬かせる。


 目の前に立つ少女の顔を、白金の雷光が照らしだす。苦い表情が、濃い陰影を帯びて夜闇の中に浮かび上がっては消えた。


 伝えるべきではなかったか、と僅かな後悔が胸に落ちる。その思いをすぐに打ち消した。



 伝えなければ、守れない。



(傍に居るなら、まだしも)



 今は、容易に手の届かぬ場所にいるのだから。

 全身から力を脱いた。のんびりと、言葉を選んで、言った。



「マダムからの、伝言、だ」



 ついと視線を上げたルーヴァベルトが眉を潜める。出来る限り笑みを作って見せた。



「『ベルの、婚約者と繋ぎがあれば、店にとっても、利がある。そのための助力なら、惜しまない』」


「…え…」


「ソムニウムの客は、貴族が多い。お前を介して借りが作れれば、と、マダムは、考えている」


「それは」


「だから、俺を、上手く使え」



 身体に巻いたシーツを脱ぐと、くるりと簡単に纏めた。水を含んで重たくなったそれを腕に抱えた。



「それなら、お前も、気が楽だろう」


「…そんな、先生には、何の得も…」


「ある」



 手を伸ばし、再度少女の頭を撫ぜた。柔らかな手触りに、むず痒い気持ちになる。



「さっきも、言った。俺は、お前を、助けたい」


「せんせ…」


「甘えてくれ」



 か細い声が、縋る様に、闇の中へ響いた。

 汚いやり口だと、自覚している。甘い言葉で、年若い娘の退路を断って。

 ぴかり、と雷光。それを飲み込むように、胸で息をした。湿った空気が、肺に落ちる。その中に花の芳香を感じ、ついと視線を巡らせた。

 ベッド脇に置かれたサイドテーブルの上に、陶器の花瓶。濃い赤紫の紫陽花が、こちらの様子を伺うように挿されていた。



「これは、取引、だ」



 花を睨めつけ、エーサンが呟く。



「ベルは、俺を利用する。マダムは、ベルを介して、繋ぎが作れる」


「…先生、は」


「俺は」



 視線をルーヴァベルトへ戻す。未だ困惑が拭いきれぬ猫目が、ゆっくりと睫毛を震わせていた。

 だから、笑みを向ける。



「家族を、失わない」



 返答には間があった。

 思考するように左右に揺れた瞳は、やがて真っ直ぐエーサンを捉えた。



「わかりました」低く抑えた声が、そう告げる。



「宜しくお願いします、先生」



 へにゃりとエーサンの口元が綻ぶ。心底嬉しげな顔に、つられてルーヴァベルトも表情を崩した。

 やはり何処か兄に似たこの男に自分は弱い、とそう思う。

 いつの間にか、窓を叩く雨音も気にならなくなっていた。ごうごうと唸る風も、今は遠い雑音にしか感じない。やっぱりまだまだ子供だなぁなんて、心の内で独りごちる。

 くっと口端に苦笑を浮かべつつ、改めてエーサンを見やった。



「早速ですが、お願いしたいことがあります」


「うん」



 こくりと頷いた男に、手短に内容を伝える。簡潔なものだったにも拘らず、彼は一言「わかった」と返した。



「連絡のやり取りはどうしましょうか」



 何か良い方法はないかとルーヴァベルトが室内を見回すと、エーサンがベッドへ視線をやった。



「あれ」と示されたそれは、紫陽花の花瓶。



「俺に、用がある時、あれを窓辺に置いて」


「わかりました。そこの、木のある窓のところでいいですか」


「うん」


「花瓶だけ? 花もあった方がいいです?」


「どっちでも。あってもなくても、花瓶が置かれていたら、どうにか忍び込む、から」



 そう言うと、手にしたシーツをルーヴァベルトに渡す。そろそろ行かないと、とぼんやりと呟いた。

 受け取った布の重さに、雨の激しさを改めて思い知る。視線を窓の向こうへやると、未だ雷雨は収まることを知らなずに怒り狂っている。

 こんな中、わざわざ会いに来てくれたのかと、改めて胸がきゅっと締め付けられた。

 エーサンは、これからまたあの中を帰って行くのだ。申し訳ない気持ちで男を見やると、彼は「濡れた靴が気持ち悪い」と唇を尖らせていた。



「先生」呼ぶと、男がルーヴァベルトへ視線を向けた。長いざんばらな前髪の奥から、一対の瞳に彼女の姿が映り込む。



「すみません」



伏せ眼がちに肩を落とした。



「この間貰った簪…実は、失くしてしまって」



 初めての夜会に差して行ったのだと説明する。襲われた事、咄嗟に簪を相手へ突き刺していたことを告げると、驚いた顔をしたものの苦笑を浮かべた。



「じゃ、あれは、ベルの役に立ったのか」


「勿論です。先生のおかげで助かりました」


「なら、いい」



 眼を細め、嬉しげに頷いた。「贈った甲斐があった」



 それから考える様に小首を傾げ、おずおずと小声で尋ねる。



「もし、また、俺が何かを贈ったら…受け取ってくれるか」



 今度はルーヴァベルトが驚いた。何でわざわざ、と思ったけれど、言葉を飲み込み頷いた。

 男が笑う。右頬にえくぼができた。

 遠く雷鳴が轟いている。雨粒が叩く窓硝子に触れながら、エーサンが頭をかいた。



「また、来る」



 細く窓を開いた。瞬間、轟々と唸る風が室内に滑り込んでくる。その強さにルーヴァベルトは目を瞑った。

 エーサンは隙間から滑り出ると、外から窓を閉める。

 あっという間の出来事だった。閉め切られた窓の向こうには、叩きつける水が世界を覆い隠し、風に煽られ揺れる枝葉の陰しか見えない。濡れた窓枠から、水が滴り絨毯に落ちた。

 残されたシーツを抱きかかえ、さぁどうミモザに言い訳をしようか、と息を吐いた。

  

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