第85話-3

 ぴりり、と空気が張り詰めるのがわかった。エーサンは、更に眉尻を下げて、困った顔をする。



「ベル」と名を呼び、そっと頭を撫ぜた。



「マダムも、心配、してる」


「…ッ!」


「誰かに寄りかかることは、罪じゃ、ない」



 ゆっくりとしたエーサンの声は、柔くルーヴァベルトの中に沁みてゆく。優しいそれは、何故か痛くて、耳を塞ぎたくなった。

 自分で何でもできると思うな―――そう、咎められているように感じるのは、ルーヴァベルト自身のせいだと、わかっている。


 けれど。


 耐え切れず視線を逸らした。構わず男が淡々と続けた。



「雨が降れば、鳥も、空を飛ばない」



 宿り木で羽根を休めるだろう。



「…誰かの枝を借りるのが、お前の弱さを証明するわけじゃ、ない」



 ぐっと息を止め、ルーヴぁベルトはゆっくりと瞼を閉じた。

 棘を飲み込んで、腹の底の黒いものを押し殺し、やっとこさ声を出した。



「それで…わざわざ説教しに来たんですか」


「違う!」



 慌てた様子で、首を横に振る。拍子に、僅かに残った毛先の雫が飛び散った。



「違う、そうじゃなくて…」叱られた子供の様な顔で、エーサンが唸った。



 意地の悪いことを言ったと、わかっている。エーサンを傷つけた。それも、わかっている。

 わかっていて口にしたのだから、性質が悪い。嫌悪感で、また、胸の中が真っ黒になる気がした。

 男が、ため息をついた。びくり、とルーヴァベルトの肩が震える。



「ハルに、聞かれた。どうしたらお前を元気づけられるだろうか…って」



 おずおずと声をかけてきた少年の姿を思い出し、エーサンは眉を寄せた。


 彼は、自分からルーヴァベルトの話題を口にしない。尋ねられれば、当たり障りのない範囲で答えてくれる程度だ。きっと主の言いつけなのだろう。彼は、忠実な性質だから。

 そんなハルが、少し前に、自らエーサンに声をかけてきた。

 


 ―――ベル様が、元気になる方法を、知りませんか?

 


 驚いて、気付けば相手を問い詰めていた。

 何があったのか。あの子の元気がないのか、と。

 しまった、と口を噤んだハルだったが、結局一つだけ教えてくれた。ルーヴァベルトの兄が、あまり屋敷に戻ってこないのだ、と。



(きっとそれは、淋しい)



 珍しく腹が立った。


 居ても立ってもいられず、とにかく会いたくて、こうして忍び込んだ。


 泣いてないか。


 独りで抱えていないか。



 ―――誰か、傍にいてくれるのか。



 杞憂で終ればそれでいい。心配し過ぎだと笑われたなら、上々だ。余計なことを、と怒られたっていい。

 無駄足を願って、雨の中走った。



 けれど。



 強張った目元に、引き結ばれた唇。望まなかった表情に、胸が痛んだ。


 苦しい。


 ベル、ともう一度、髪へ触れる。自分とは違い、艶やかな黒髪。濡れた烏の羽根のように、薄闇の僅かな光を吸い込んで、美しい。

 それを一房、遠慮がちに掬い上げた。



「ソムニウムは、この国でできた、俺の、家、だ」



 ゆっくりと、言葉を選んで伝える。「ベルは…家族の、一人」



 流れ流れて辿りついた異国。思いがけず得られた居場所は存外居心地がよく、触れる人々は甘く優しかった。

 その中で出会った、小さな娘。まだ幼さの残る弱い子供だと思ったけれど、決して逸らさぬ赤茶の猫眼が酷く印象的で。


 柔く、甘く、強く、弱い、ルーヴァベルト。


 不機嫌そうな顔に、時折ふと浮かべる笑みに、ほっと胸が温かくなる。先生と呼ばれる度に、むず痒くて、嬉しくて。

 妹、娘…そんなものがあったなら、きっとこんな気持ちになったのだろう。

 泣きたくなるような幸福を、故郷から遠く離れたこの地で得られるなんて、誰が想像しただろうか。



「俺は、お前が、可愛い」



 口にするのは、少しだけ躊躇われた。けれど、告げた。

 だから、と。



「何かあったら、絶対に、助けるから」



 少女が何か言おうと口を開く。苦しそうに息をした音だけが、喉から漏れた。

 彼女は額を抑えると、ゆっくりと首を横に振った。弾みでエーサンの指から黒髪が逃げ出す。さらりとした余韻に、少し淋しくなった。



「今更そんなことを言われても、困る」低く擦れた声が、喘ぐように言った。



「どう頼ればいいか…わからない」


「ベルは、子供でいる時間を、大人の間で過ごした、から」


「でも、そんなの、珍しくない。生きていくために、同じように大人の中にいる子供なんて沢山いる」


「その通りだ」



 苦い笑みを口元に浮かべ、エーサンが頷いた。



「俺が、もっと器用だったら、お前の事、ちゃんと子供で居させられてやったのに」


「…ッ! そんなの、望んでない!」


「俺の、後悔だ。お前は関係ない」



 勝手な想いだ。

 大切にしたいと、保護者を気取って。

 窓の向こうで、相変わらず雨粒が硝子を叩いている。風に煽られた枝葉が揺れる音が、獣の鳴き声のように耳に届く。



「傍にいられなくなって、初めて、気付いた。お前が死んだら…俺はきっと、沢山泣く」



 ルーヴァベルトが顔を上げた。俄かに見開かれた赤茶の双眸が、驚きの色でエーサンを見やる。

 そっと微笑んで見せた。片頬のえくぼが、どうか彼女に優しく見えますように。



「だから、そうなる前に、俺に言え。お前が死なないための、助けになる、から」



 遠く雷鳴の音が、聞こえる。

  

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