第85話-2
「急に来て、迷惑だった。ごめん。…床も、濡らしたし」
身を縮ませた男に、慌てて首を横に振る。「あ、違いますって!」
「ちょっと別の事を考えてただけで」
「迷惑じゃ、なかったか」
「ないです。むしろ、会えて嬉しいです」
そう言うと、目元を綻ばせた。赤茶の猫目を細め、口端を持ち上げた。
それに、ほっとエーサンが息をついた。
「よかった。強い雨の日じゃないと、部屋まで隠れて近づけないけど…雨だから、ベル、嫌かな、て、思ってた」
覚えていたのか、と苦笑する。随分昔に苦手だと話した気がするが、当に忘れてしまっただろうと思っていた。
「てか、先生。よく私の部屋がわかりましたね」
屋敷の周りは木々に覆われており、外の通りに面した外壁からは随分距離がある。外から覗いてルーヴァベルトの部屋を確認することは不可能だ。
先日ハルの手引きで会った時も、部屋からは離れた場所だった。ルーヴァベルトが自室に戻るよりも先にエーサンはハルと共に帰ったため、部屋を知る術はない。
何より屋敷の外から建物を見るとどこも同じような造りになっており、どこが何の部屋か見分けがつかない。特にルーヴァベルトの部屋は窓の前に大木が枝を広げており、中を覗き見ることも難しいはずだ。
首を傾げた少女に、男は雪解け時の、ほわりとした笑みを向けた。
「何回か、忍び込んで、確認した」
「しのっ…え、何回か?」
「うん。ベル、朝に鍛錬してるから、仕事が無い時に、時々忍び込んでた。でも、ハルがいたから、部屋がわかるまで、時間、かかったけど」
「全く気付かなかった…」
「ここの警備、優秀。俺も、久々に、真面目に気配を消した」
少し照れたように、けれどちょっぴり自慢げに、もごもごと続ける。「見つからなくて、よかった。ベルに、会えた」
会いたかったと、そう告げるエーサンの頬のえくぼは、変わらず優しい。
泣きたくなった。
必死で堪えた。
最近涙もろくていけない。弱っている場合じゃないのに、ふとした瞬間に誰かに縋りたくなってしまう。
目の前に立つ恩師に、弱音を吐けたらどれだけ楽だろうかと思った。
そんなことをすれば、きっともう、立ち上がれなくなる。
「私も、です」声が震えぬよう、力を込めて呟いた。
「けど、わざわざどうして…」
改めて相手を見やる。長い前髪越しに、エーサンと目が合った。
彼は少し考える様に眼を瞬かせると、こてりと首を傾げ、顔から笑みを消す。肩にかかったシーツの端を掴むと、自分の身体に巻き付けた。
「心配」
そう、一言。
「ベルは、強いから、心配」
「…っなんの」
「俺は、ベルより、強い」
ルーヴァベルトの声を遮るように、エーサンが僅かに声を大きくする。珍しく強い口調だった。
だというのに、表情は、どこか悲しげで。
「ベルは、頑張りすぎる」
聞き覚えがある言葉に、どきりとした。
脳裏に赤い影が過る。燃えるような髪をした、背の高い男。印象的な灰青の瞳が、記憶の向こうからルーヴァベルトを捕えた気がした。
「悪い事じゃ、ない」彼女の心の内など知らず、エーサンがゆっくりと息を吐いた。
「けど、傍にいる者は、少し、淋しい」
叱られているのだろうか、と思った。
責められている気がした。
何が悪いのか、と胸の内側で、もう一人の自分ががなり立てる。どいつもこいつも勝手なことを、と悲鳴を上げるのが漏れそうで、ぐっと歯を食いしばった。
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