第85話

 雨粒が窓を叩く。

 それが耳障りで、布団の中、ルーヴァベルトは寝返りを打った。湿気を含んだ空気が重く、頭が痛い。

 激しい雨は嫌いだ。天から落ちる大粒が、屋根に穴を開けてしまう気がして。

 今はもうそんな心配せずともよいと言うのに、それでも不安な気持ちになった。雨が、風が、壁を壊し硝子を割って、大切なものを攫って行ってしまうような怖れが、頭にこびりついて離れない。


 幼い頃は、雨が降る夜は決まって兄の布団へ潜り込んだ。大丈夫だよ、と優しく背中を撫ぜられると、不思議とほっと落ち着いたものだ。

 随分前からそんな夜もなくなり、雨だろうが雷だろうが一人で耐えられる。だからといって、平気なわけではなかった。

 頭まで布団をかぶり、縮こまって両耳を塞ぐ。きつく眼を閉じ自分の内に眠気を探すが、こんな時に限って頭がさえている。腹が立って、小さく舌打ちをした。


 と、不意に違和感を覚え、ぱちりと眼を開けた。

 雨粒が窓を叩く。ばちばちと耳障りな音。

 その中に、僅かに違う音が混じっている。


 そろりと布団をはぐと、物音を立てぬようベッドを抜け出した。裸足のまま滑る様に壁際に寄り、耳を欹てる。

 ばちばちと雨が窓を叩く音。そこに、トントントン…と規則正しいノック音が、確かに混じっていた。

 いつもルーヴァベルトが抜け出すあの窓だ。

 そっと窓に近づくと、外を伺った。濡れた硝子で世界が歪んで見える。


 その中に見つけた人影に、あ、と声を上げ、慌てて窓の鍵を開けた。



「…っ先生!」



 窓の外から、叩きつける風と共に雨が降り込んでくる。一緒に、部屋の中に黒い影が転がり込んできた。

 激しく煽られ、窓が悲鳴をあげた。ルーヴァベルトは手を伸ばし窓を占めると、元のように鍵をかけた。

 振り返ると絨毯の上に蹲った人影が、びしょ濡れの顔を両手で拭っていた。



「先生」



 もう一度呼びかける。それに顔を上げたのは―――見慣れた男の顔だった。

 濡れてぺったりと肌に張り付いた黒髪から、雫が滴り落ちる。それが目に入ったのか、エーサンは両手で必死に顔を擦っていた。

 ルーヴァベルトはベットに駆け寄ると、シーツを引っぺがした。丸めたそれを抱えて戻ると、頭からすっぽりとエーサンに被せ、上から乱暴に拭いた。薄い布は見る間に水気を含んで重たくなってゆく。その度、乾いた部分を手繰り寄せては、中でじっとしている男の髪の毛を拭いてやった。

 暫くそうしていただろうか。

 シーツの下からぬっと伸びた腕が、徐に布地を剥いだ。濡れてしんなりとしたざんばら頭に、不精髭。長い前髪越しにルーヴァベルトを見上げた男は、口元に淡い笑みを浮かべた。



「ベル」久方ぶりに呼ばれた字名。男の右頬にはえくぼ。



 下腹辺りがきゅっとなる。思わず顔が歪んだ。



 何で、と、どうして、と問いかけは浮かぶのに、声にならない。唇を引き結んだまま、黙って赤茶の瞳が相手を睨めつけた。



「急に、ごめん」



 押し黙ったままの彼女の様子に、慌ててエーサンが立ち上がった。



「視界が悪い日じゃないと、見つかっちゃうから」



 少しだけ高い位置にある双眸を、ルーヴァベルトは怪訝げに見やる。



「見つかる? 誰に」



 問いかけつつ、男の肩にシーツをかけてやった。褪せて薄くなった衣服は、水を吸って冷たく身体に張り付いていた。

 少し考える様に眼を瞬かせたエーサンは、「ええと」と口を開いた。



「屋敷の、護衛。ハル、とか」


「ハルに?」


「そう。後、何人か、いる。いつも、外壁や、庭を、見張ってる。四六時中だから、忍び込むの、難しい」


「え、そんなに人います?」


「いる。前は、そんなに、いなかった。けど、少し前に、増えた」



 思い当たる節があり、ルーヴァベルトは顎に手をやった。

 多分、先の一件があったからだろう。そういえば屋敷内に入り込んだ暴漢は、その後どうなったのだろうか。

 難しい顔で俯いた彼女を、萎れた様子でエーサンが覗き込んだ。

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