第82話

 部屋に転がり込むと、急いで扉に鍵をかけた。

 そのまま床にへたり込む。年季の入った木製の扉に縋りつくように、息を吐いた。

 瓶底眼鏡の奥の双眸をぎゅっと瞑ると、エヴァラントは耳を欹てた。誰も追いかけてくる様子無い。いつも通り、職員の足音が行き交うだけ。

 改めてほっとした。王弟殿下の、自信に満ちた足音は聞こえない。


 よかった…と、自嘲めいた笑みを口元へ浮かべた時だった。



「おかえりー」



 背後から声がする。驚いて振り返った。

 エヴァラントの職場は、一人部屋である。仕事に必要な書物が他の研究員の倍以上あり、その一部はエヴァラントしか解読できない古文字である故、他の研究員では管理しきれないと苦情が上がり、数年前に一人部屋が宛がわれた。元は倉庫だった小部屋なため、広く快適とは言い難いが、壁一面に設置された本棚と敷き詰められた書物、同じく本に埋まった机と気持ち程度に置かれた古いソファという空間は、エヴァラントにとって心地よかった。

 何より、一人きりというのがいい。



 ―――のに。



 自分の居場所に陣取る相手を見止め、がくりと肩を落とした。「グリード兄弟」


 エヴァラントの仕事机の上座る青年が、にんまりと笑みを浮かべた。

 さらりとした黒髪に、空を思わせる薄い碧眼。眠たげな垂れ目の青年は、エヴァラントと同じ年頃だろうか。研究所から配布された白衣の下の服は、だらしなく着崩れている。



「思ったより早かったねぇ、エヴァ」



 言いながら白衣のポケットを探り、中から飴玉を取り出した。包みを開くと口へ放り込む。片頬が、飴玉の形にぽこりと膨らんだ。



「もうちょっと遅いかと思ったけど」



 よく似た声がもう一つ、ソファから投げられた。

 そちらを見やれば、声と同じく、よく似た顔が寝転がっている。長い脚が治まりきらずにソファから飛び出ているが、本人は気にする様子もなく、広げた本の文字を追いかけていた。


 勝手に寛ぐこの二人―――ガジャ・グリードとイラーレ・グリードは、研究機関の同僚である。顔も体型も見分けがつかぬ程そっくりだが、普段、イラーレだけは眼鏡をかけているため、かろうじてどちらがどちらか判別できた。


 元々この双子とエヴァラントは、お互いそう関わりのない部署に所属している。正直、エヴァラントとしては関わりを持ちたくなかった相手なのだが、数年前、丁度この一人部屋を宛がわれた直後から、双子が部屋に入り浸る様になった。勿論、家主の承諾など無視をして。

 突然現れ、勝手気ままに振る舞うグリード兄弟に、当初は胃が縮まった。何せこの二人、中々に悪名高い双子なのである。噂では、揉めた研究員の腕をへし折ったやら、笑顔で殴りつけてくるやら、不穏なものばかり。しかし、一応名門貴族の子息であるため、大事にもできず、結果皆泣き寝入りらしい。

 一体どうして眼をつけられたのかと、内心ビクビクしていたエヴァラントだが、入り浸る割には何をするでもない兄弟に拍子抜けした。しばらくしてから「何をしに来たのか」と問えば、堂々とサボるのに丁度よかったからだ、と返された。



「別にどこでもよかったんだ。丁度、ここを見つけたってだけでさぁ」


「邪魔されなきゃ、酷い事もしないって」



 笑顔の眼は笑っていなかったけれど、双子の言葉が嘘ではないとエヴァラントにはわかったので、好きにさせることにした。存外、仕事の邪魔はしないので、今の所弊害はない。知らず「双子のお気に入り」と周知されてしまったため、僅かしかいなかった友人が更に減っただけだ。



 のろのろと立ち上がったエヴァラントは、荷物を下すとコートを脱いだ。部屋の隅に置かれたコートハンガーに引っかけると、白衣を取って羽織った。ヨレヨレの裾を手で伸ばし、机に座る片割れ…ガジャに向き直った。



「申し訳ないけど、退いてもらえるかな。机を使いたいのだけど」



 口の中で飴を転がしながら、じいと空色の双眸がエヴァラントを覗き込む。が、すぐに垂れ目を細めると、「いいよぉ」と机を降りた。

 ソファへ移動し、兄弟の側に座ったガジャは、椅子に座るボサボサ頭を見やった。持ち帰った鞄から分厚い本を取り出すと、早速それを広げている。本の表紙は、褪せた青緑。革表紙だ。



「それ」とガジャがのんびりした口調で言った。



「王家所蔵の、だよね」



 びくり、とボサボサの黒髪が震える。驚いたように首を捻った相手に、相変わらずのんびりとガジャが続けた。



「図星かぁ」


「…鎌かけた?」


「当たり」



 舌の上で飴を弄びながら、口端を持ち上げる。薄く開いた口元に、白い歯が覗いた。

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