第79話

「はいはいはい、そこまで!」



 乱暴に開かれた扉の外から、良く通る声が大きく告げた。「あまりうちのを苛めてくれるな、マリシュカ嬢」


 差し込んだ日光を背に大股で向かってくるのは―――赤髪の男。


 濃紺の軍服に身を包み、颯爽と現れたのは、館の主である王弟殿下。予定外の帰宅をした主人の姿に、一瞬驚きに金眼を見開いた執事も、すぐに深く頭を垂れた。



「お帰りなさいませ」



 片手を上げそれに答えたランティスは、皮肉めいた笑みを口元に、視線を客人へ向ける。表情の割に、ひやりと冷たい眼差し。別段驚く様子もなく、マリシュカは微笑みを返す。



「ごきげんよう、殿下。お邪魔しておりますわ」



 挨拶と共に、スカートの裾を抓み、綺麗な礼を取る。柔らかなベージュの生地の下で、白いレースがちらりと揺れた。



「元気そうで何より。嬢にはいつも驚かされるな」


「あら、そうですの?」


「大貴族のご令嬢が、毎度連絡もなく訪問してくるなど、そうそうない故」


「お転婆が過ぎる、と兄にも叱られますの。お恥ずかしい話ですわ」



 言葉に練り込まれた皮肉もさらりと流し、コロコロとマリシュカが声を上げた。その実、菫の双眸には挑むような輝きがあり、男はくっと喉を鳴らした。

 真っ直ぐに自分に臨む視線は、どこか敵意すら混じって感じられ、心地よい。

 対するマリシュカは、予想よりも早く戻ってきた王弟殿下へ、内心舌打ちをした。何とか灰髪の執事を丸め込んで部屋を獲得しようと思っていたが、存外手ごわく時間がかかった。それでも何とか押し切るつもりでいたのだが、その程度の時間はある計算だったのだが。

 脳裏に、ファーファル家家令の姿が過る。齢六十をとうに過ぎたというのに、しゃんとした老人。大荷物を抱え、上手く家を抜け出せたと思っていたが…どうやらばれていたのだろう。あっさり見逃したのは、既に知らせを走らせていたからやもしれない。

 すいと双眸を細めたランティスが、顎をしゃくって後ろを指した。



「そのお兄様も来てるぞ」



 やっぱり、と苦い思いを綺麗に押し隠し、驚いた表情を作って見せた。ランティスが鼻で笑う。その顔に、独占欲丸出し空振り殿下、と心の内で悪態をついた。

 玄関ホールに男が二人、転がり込んできた。一人はクセのある亜麻色の髪の男で、もう一人は―――。



「ちょっと、ラン! アンタ手伝いなさいよ!」



 妹と同じ菫の双眸を吊り上げ、裏返る声でアンリが叫んだ。普段は優しげな面立ちが、今は必死の形相である。ランティスに比べれば線の細い彼が、それでも何とか引きずってきたのは、ボサボサの黒髪の男。鞄を抱えて身を縮こませ、アンリに抵抗している。おかげで、アンリの洒落た貴族服は、少々着崩れてしまっていた。


 あっ、とルーヴァベルトが声を上げた。「兄貴」と呼びかけ、慌てて口を手で押さえる。令嬢としての呼び方は、正しくは「お兄様」だ。


 赤茶の猫目でエヴァラントを凝視する婚約者殿をちらと見やったランティスは、踵を返した。大股にアンリら二人へ近づくと、エヴァラントの首根っこを引っ掴む。突然強い力で引っ張られたボザボザ頭は、「ぐえ」と潰れた声を上げた。

 気にも留めず引きずって戻ると、少女二人の前に放りだした。ごろんと転がったエヴァラントは、慌てた様子で起き上がり…目の前に立つ妹の姿に気まずげに口元を歪めた。


 瓶底眼鏡の兄の顔を、ルーヴァベルトはむっつりと睨めつける。言いたいことは多々あったが、この場で言うべきではないと飲み込んだ。一つでも漏らせば、堰を切って言葉が溢れてしまうだろう。それらはきっと罵詈雑言で、決してお行儀のよいもではないから。

 小奇麗な貴族服の上に、彼は洗いざらしで擦り切れ色褪せたコートを羽織っていた。腕に抱えているのは、愛用の肩掛け鞄。この二つが貧乏くさくて、中の服とちぐはぐだった。


 髪くらいとかせばいいのに、と思う。けれど、変わらない姿に、ほっとした。


 肌触りの良い布で作られた、流行遅れでない衣服。褪せていない色、擦り切れていない生地、継ぎ接ぎなどどこにもない。

 清潔で、ゆとりのある生活。憧れていたのに、いざその中に身を置くと、違和感と居心地の悪さが下腹辺りにしこりとなって沈んだ。そうして、時折浮き上がり、ここは居場所じゃないと囁く気がして。

 きっと、兄も同じだったのだろう。だから、未だに手放せずにいるのだ。


 一つ眼を瞬かせ、視線をランティスへ向けた。灰青と目が合うと、彼は笑おうとして…少し失敗した。結局あやふやに歪んだだけの口元を抑え、ぷいとそっぽを向いてしまう。


 気を使われたのだろうか、と思う。


 あの時、ルーヴァベルトの様子を見て…泣く姿を、見てしまって。



(わざわざ兄貴を捕まえてきたのか)



 しくん。


 胸に針が刺す。細くて長い針。きゅっとへその上が、締め付けられるように痛んだ。


 足元ではエヴァラントが、落ち着きなくそわそわと周りを見回している。どうしたらよいのかとランティスを見上げると、少しだけ顔を赤らめた王弟殿下がそこにいた。口元を抑え難しい表情の向こうに、明確な感情を読み取ってしまう。

いけないものを見てしまった気がして、そっと視線を逸らした。

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