第78話

 何でこうなった、と思う。

 ここ数日、そう感じることが多すぎて、そろそろ何が起きても動じないだろうと高を括っていたが、そう簡単に心が無になるわけでもないらしい。


 事実、目の前で繰り広げられる冷戦に、ルーヴァベルトは頭を抱えている。


 王弟殿下の屋敷の玄関ロビーで、優美に微笑むのはマリシュカ・ファーファル。柔らかな素材の淡いベージュのワンピースを身に纏う姿は、いつみても儚げな令嬢だ。

 そんな彼女の後ろには、山と積まれた荷物。

 向かいに立つ灰髪の執事は、濃い金の視線を冷やかに、客人へ向けている。相変わらず表情のない顔に、双眸だけが僅かな苛立ちの色を含んでいた。

 凍る眼差しを気にする様子もなく、マリシュカは可愛らしく小首を傾げた。



「それで、私はどのお部屋を頂けますの?」



 すいと柳眉を釣り上げたジーニアスが、一つ眼を瞬かせる。



「先程も申し上げました通り、主の許可なくお通しするわけには参りません」



 硬質な声は、静かなホールによく響いた。上手く隠しているものの、奥底に怒りを孕んだ声色に、ルーヴァベルトは身を硬くする。鬼執事の怖さは、マナーレッスンで散々身に染みていた。

 けれど、目の前の令嬢には伝わらなかったようだ。「まぁ」と両手を頬にやり、蕩けるような笑みを返す。



「安心なさって。殿下はきっと許して下さいますわ」


「それに関して、私では判断致しかねます。どうぞ、主が戻るまでお待ちください」


「あら、ですがもう荷物を持って参りましたし、先にお部屋に運び込んでしまった方が二度手間にならず皆さんの負担も軽くなると思うのですけれど」


「そのようなお気遣いは無用です。どうぞ、応接間へ」



 このやり取りを、先程から繰り返している。そして、繰り返す度に空気が冷えてゆくため、ルーヴァベルトは居心地が悪くて堪らない。

 さっさと逃げ出してしまいたいのだが、自分にも多少関わりがある故に、結局側で突っ立っている羽目になっていた。



 事の発端は、つい先程の話。

 午前中のダンスレッスンを終え、昼食前の休憩を取っていた所に、突然マリシュカが来訪したのである。

 前回とは違い屋敷にはジーニアスが居たため対応に出たのだが、丁度ルーヴァベルトも食堂へ向かう途中でその場に居合わせた。とは言え、吹き抜けになった二階の廊下から玄関ホールを覗き見ただけなのだが。

 開かれた扉から中に招き入れられたマリシュカは、執事への挨拶を済ますと、軽く後ろを振り返り、何やら合図を送った。途端、数人の従者が山のような荷物を運びこみ、ホールへと積んでいった。あっという間の出来事で、有能な執事殿が止める間もなかった程だ。


 その荷物を背に、麗しのマリシュカ嬢が言い放った言葉。



「今日より、こちらの御屋敷にお世話になることにしましたの」



 どうぞよろしく、とスカートの裾を持ち上げ、完璧な礼をとった。瞬間、ふわりと香ったのは、甘い香水。仄かなのに印象的な、彼女によく似たものだった。

 直ぐに姿勢を正したジーニアスが返した答えは、勿論「否」だ。



「主より、そのような話は言付かっておりません」



 この一点張りである。

 しかし、それで引き下がる程柔な令嬢が相手ではない。儚げにも見えるおっとりとした対応で、のらりくらりと食い下がった。

 まるで氷点下の戦いだ、とルーヴァベルトは頭が痛くなった。心底どうしてこうなったのかが分からない。

 何を思ってマリシュカ嬢は、この屋敷に住むなどと言い出したのか。



 ―――思い当たる節が無いわけではなかった。



 先日の一件。小指への口付。



(や…でも、まさか、だからって)



 愛の指へ、敬愛と束縛を捧げる行為。つい先日、彼女はルーヴァベルトに対し「自分は相手に心臓を捧げ、命ある限り相手からの束縛を許す」と誓った。

 ルーヴァベルトの同意も得ずに、だ。


 思い出して、つい苦い気分になる。


 マリシュカにではない。赤髪の、王弟殿下を思い出したからだ。

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