第76話

 さて困った。


 探し物をする振りで机を漁りながら、ルーヴァベルトは内心頭を抱えていた。

 何処へ行くのかとランティスに詰め寄られ、咄嗟に「兄貴の部屋」と答えてしまったのがつい先程の話。おかげで強制的にエヴァラントの部屋へ連行されてしまった。

 赤髪の男は不機嫌な顔で、部屋の出入り口付近に立っている。灰青の視線は、じいとルーヴァベルトへ向けられていた。


 部屋の主は不在。朝も慌てて出て行ったのか、ベッドの上には寝間着が放られていた。

 机の上には沢山の本と資料が山と積まれており、完全に物置と化している。どれもルーヴァベルトには判らない本ばかりで、それを何となく手に取り捲ってみたりする。

 が、そんなことで誤魔化しきれるものではないと諦め、くるりと振り返った。



 「すみません、嘘つきました。ここに全く用事ありません」



 抑揚無く棒読みで謝罪を口にする。反省の色も全くない顔は、酷く面倒くさそうだった。

 だろうな、とランティスも息を吐いた。「そんなこったろうと思った」

 気づいていたなら話は早い。さっさと自室へ戻ろうと大股に男の側をすり抜けようとした少女の腕を、ランティスが掴んだ。ぐいと強い力で引かれ、またか…とルーヴァベルトは渋面になる。



 「今度は何ですか」


 「本当は何処へ行くつもりだったんだ?」


 「…」


 「どうした。言えないような所へ行く気だったか?」



 面倒くさい男だな、と内心舌打ちをする。

 正直、答えたくなかった。

 なにせ、どうにか屋敷を抜け出してソムニウムへ行けないかと、抜け道を探しに行くところだったのである。知れれば大目玉だろう。

 むっと口を噤んで黙り込んだ婚約者殿に、赤髪の男は大仰なため息をついた。



 「その様子じゃ、大よそ褒められんことを企んでいたようだな」



 ぷいとそっぽを向くと、ルーヴァベルトは不機嫌に吐き捨てる。



 「あんたに捕まったんで、もうしません。気が済んだなら放して下さい」



 振り払おうと腕を引くが、流石軍人、びくともしない。放す様子のない相手に、ルーヴァベルトが眉尻を釣り上げた。



 「放して下さい」



 「何処に行くつもりだったんだ」


 「もうやめたんで、関係ないです」


 「答えろ」


 「お断りします」


 「ルーヴァベ…」


 「うるさい!」



 怒鳴り、力いっぱい男の手を振りほどく。驚きに眼を見開いた相手を睨めつけ、勢いに任せて吠えた。



 「あんたには関係ないだろ!」



 八つ当たりだ、と頭の隅で誰かの声がした。それに気付いても、せり上がる感情を抑えきれなかった。知らずにため込んだ苛立ちが、腹の底で黒い鎌首を擡げる。それを吐き出したくて、誰かに当たり散らしたくて。


 自分で選んだ道だ―――そう判っていても、傷つかないわけじゃない。

 痛いし、苦しい。頭の中はぐちゃぐちゃで、熱を帯び、思考を鈍らせる。

 眼に見えない傷跡が、膿んで、膿んで、身の内で毒に変わっていく気がした。



 ―――抱え切れない。



 自分の幼さを突き付けられた気がした。同年代よりも苦労しているのだと、大人に交じって夜に働いているのだと、そうした自負が知らずに己を奢らせていたのだろう。まるで大人になった気分で。

 どれだけ周りの「大人」に支えられていたかも知らず。


 目頭が熱い。じわり視界が滲むのがわかった。

 歪む世界の中で、驚きと…傷ついたように顔を歪める王弟殿下の姿。

 泣くものか、と歯を食いしばる。

 泣きそうなのは、ランティスも同じ。痛みを堪え、言葉もなくルーヴァベルトを見つめていた。


 この男の前で弱みなど見せるものか…絶対に。

 そう思ったのに。

 溜まった涙の粒が、一つ、頬を伝う。

 同時に、ランティスがルーヴァベルトを引き寄せ、強く抱いた。

 すっぽりと腕の中に納まった少女は、けれど嫌々と身を捩る。それを許さぬと、ランティスの腕に力が籠った。



 「ごめん」甘い―――けれど、苦い響きで、ランティスが囁く。



 「ごめん…ごめんな」



 放せ、と唇を噛んだ。言葉にはならなかった。声を発すれば、更に涙が零れる気がして。

 何を謝るのだ、と罵りたい。

 謝るな、と怒鳴りたい。



 (この人が悪いわけじゃない)



 そんなの、とうに気づいている。

 悪いのは、悪意を向ける奴らだ。

 手段を選ばず、誰を傷つけようが構わず、刃を振り上げる奴ら。


 そして…王弟殿下の手を取った、自分自身。


 兄であるエヴァラントも、ばあやも、この男のおかげで幸せだ。家族が幸せで、ルーヴァベルトもまた幸せなのだ。

 だから、ランティスを憎んではいけない。



 (こいつは、悪い奴じゃない)



 治ったはずの掌の傷が、腫れの引いた頬が、チリチリと痛んだ。同じように、胸の奥もチリチリと引きつって痛む。

 苦しくて、瞼を伏せた。また一粒、涙が零れ落ちた。

 誰かに当り散らして、理不尽な言葉を投げて、そして縋りつきたかった。

 その誰かは、エヴァラントであって欲しかった。ボサボサの黒髪に瓶底眼鏡の、うだつの上がらない兄。けれど、ルーヴァベルトにとって、唯一甘えて縋れる相手。

 けれども今、彼はどこにもいない。

 だから兄によく似たエーサンに会いたかった。しゃがみ込んで泣きじゃくって、そんなルーヴァベルトを困ったように不器用な手が撫ぜてくれるだろう。

 そのエーサンにも、容易に会えず。


 結局、泣いて、縋って、そんな自分を抱きしめる腕は、赤髪の王弟殿下その人で。


 この男の前で弱みなど見せるものか、と思う。

 けれど、抱きしめる腕を振り払う気になれなかった。


 この男の前で弱みなど見せるものか、と思う。

 だと言うのに、涙が、止まらない。


 唇を引き結んで、嗚咽が漏れぬよう力を込めた。口元が震える。鼻で息をするたびに、胸の下辺りが痙攣した。



 ―――悔しいけれど、少しだけ、ほっとした。



 腹の底のどろりとした黒い感情が、ゆっくりと解けていく気がする。痛みも苛立ちも、消えはしない。けれど、ほんの少し薄らいだように感じた。

 きっとそれは、ランティスの腕の中が、存外温かくて、思ったよりも不器用に優しいからだろう。

 エヴァラントとも、エーサンとも違う。



 (私は、この人を好きじゃない)



 心の内で、音にせず呟いた。





 嫌いになれないから困る、と。

 

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